スペイン 風邪 日本。 スペイン風邪のデータから学べること│TheInvestors

人類と感染症8 スペイン風邪、日本で最初は「相撲風邪」(Japan In

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から続く 【写真】100年前、世界2000万人以上が死んだスペイン風邪の写真を見る(全5枚) 今次コロナ禍では緊急事態宣言が1都6府県に発令されたが、1918年に日本に上陸し、その終息まで丸2年を費やした100年前の・スペイン風邪では、当時の日本の総人口約5600万人に対し45万人が死亡するという大惨事だったが、ついぞ国が主導して緊急事態宣言やそれに類する法律の発令をすることは無かった。 「緊急事態宣言」を出さなかった2つの要因 要因のひとつとしては、平均寿命が44-45歳と現在の半分強しかなかった当時、結核を筆頭とした感染症による死は「当たり前の光景」であり、日本人や日本政府全体の公衆衛生に対する意識が低かったこと。 もうひとつは、日本が第1次大戦に連合国軍側として参戦し、とりわけロシア革命でロシアが協商から離脱した1918年以降、日本がロシア極東地域に干渉戦争を行っている最中だったこと(シベリア出兵、〜1922年)があげられよう。 つまり日本はスペイン風邪というパンデミックの最中、戦時だったのでまず政府のリソースはそちらに向かざるを得なくなっていた。 加えてスペイン風邪終息後間もない1923年には関東大震災が起こり帝都が壊滅。 日本政府は東京圏の復興に全資源を集中させざるを得なくなった。 スペイン風邪はこのような激動の時代に日本を襲ったパンデミックであった。 スペイン風邪に対する公的な対処は、このような情勢の中、警察を管轄する内務省が主導した。 内務省のもとに各道府県に指示がなされ、全国一律の対策ではなく、各道府県ごとにその対応はまちまちと言ったところであった。 スペイン風邪の最中である1920年(大正9年)、日本の総人口約5600万人のうち、市部に住んでいたのはわずかに18. 0%と2割に届かず、残りの8割は郡部に住んでいた。 つまり、総人口の8割強が農村に居住していた「農村社会」が大正時代の日本の姿であった。 第1次大戦で戦勝国となり「世界五大国」として名目上栄達したかに見えた日本帝国の実態とは、大多数の国民が郡部で暮らす「半農国家」だったのである。 現在、市部に住む人口は日本の総人口1億2000万人超に対して9割を超えている。 このような社会では、大都市部を抱える人口過密地域に対して、人と人との接触を自粛したり、通勤・通学量を減少させたりするのは効果があると思われるが、大正時代はそもそも大都市部の人口がマイノリティだったので、そのような「要請」が行われることが基本的に無かったのである。 「学校閉鎖」「工場停止」……それでも感染爆発が起きた そのような中、内務省を中心としてスペイン風邪に対する対処は地域によって濃淡はあるものの粛々と行われた。 小学校・幼稚園で学童・児童に感染者が出た場合、学校を閉鎖したり、また工場が数週間〜数か月の操業停止を行う場合があった。 この辺りは現在の状況と極めてよく似ている。 しかし結果として感染は止まらず、45万人の日本人が死んだ。 なぜか。 当時はスペイン風邪の正体であるH1N1型のインフルエンザウイルスを直接観測する電子顕微鏡が存在しなかったこと(人類が電子顕微鏡でウイルスの観察に成功するのは1930年代である)。 よってスペイン風邪の原因が当時の人々には全く不明だったこと。 そしてそれに相まって、細菌より小さなウイルスが引き起こす感染の連鎖を、現在よりもはるかに人口密度が希薄で大都市部での通勤者が少なかった半農国家の大正日本ですら、根本的に止める術を持たなかった、という事に尽きる。 内務省はこの爆発的感染の状況を、 <昨年来欧米諸国にびまんせる流行性感冒は伝播の迅速なる瞬間四方に波及し、貴賤貧富の別なくその災害に罹らざる者、ほとんど稀なり(新潟県、内務省,153)> <学校内またはその周辺村落に流行のきざしあるとき一時学校を閉鎖するは伝播を断ち禍を少なからしむる上で効果大なるを以てしかる場合には適宜の措置をとる様奨励したるがため、学校の全部または一部を閉鎖せるところまた少なからざりき。 然れどもその多くは閉鎖の時期遅れ、すでに多数児童の本病に犯され欠席者増加し、やむなく閉鎖せるもの多かりし(内務省,224)> と表現するぐらいだから、全社会階層で感染爆発が起こり、打った対策は感染爆発の前では遅すぎて満足な効果を出せず、結果累々たる屍の山を築いたことは想像に難くない。 現代とそっくり? スペイン風邪「4つの対策」とは とは言え内務省を主導としたスペイン風邪対策は、以下大きく4つに分かれ、驚くべきことにこの対策は今次コロナ禍における現代の対策と大きく違うところは無い。 それは第1に、電車、工場、劇場、興行、集会など人が密集する場所を避ける訓示。 第2に、うがい・手洗いの励行。 第3にマスク着用の啓発。 第4に予防接種の実施である。 この4つが殆ど当時の日本が出来るすべての対策であった。 今次コロナ禍では「人との接触を7〜8割減らす」をスローガンに飲食店やイベントの自粛が行われて久しい。 強制ではないもののお上の要請を忖度するかたちで、多くの飲食店や興行等は中止になり現在を迎えている。 1921年(大正10年)1月、内務大臣・床次竹二郎(とこなみ たけじろう・原敬内閣下)により「流行性感冒予防心得」が出た。 この心得は大流行が一段落してからの総括的なものではあるものの、それによると当時の心得は驚くほど現代と似ている。 <丙 集会、集合の制限 一、 演説会・講演会・説教等 流行時にはなるべくこの種の会合を見合わすこと。 二、 学校・幼稚園等 学校閉鎖 学校内、学校所在地およびその近傍において患者発生の場合は状況により、速やかに全校またはその一部を閉鎖すること。 三、劇場・寄席・活動写真等 流行時には入場者のマスク使用を奨励し、衛生施設を一層厳密にし、状況により興行を見合わすこと。 四、 祭礼・祝賀会・法会・葬式等における多人数の集合はなるべくこれを避けること。 (内務省,180より)> 100年前も、現在の自粛ムードと似ていることがわかる。 しかし学校は前記の通り閉鎖した地域は多かったが、劇場や祝賀会などの催し物が自発的に閉鎖・中止されたかどうかは定かではない。 たしかに当時、力士に感染が認められたので巡業が中止になったなどの報道はあるが、各商店や劇場が自発的に営業を中止したという記録は寡聞にして聞かない。 それどころか内務省を主導として、各地の劇場や寄席、理髪店で「マスク着用、うがい励行」などの講演会を上演したぐらいだから、現代のような一斉自粛とは程遠かったのが実情のようだ。 大正時代の日本は古典的な自由放任経済であり、民間経済活動に政府が口を出すことはよほどの事由を除きはばかられた。 資本家による無秩序な開発は抑制より奨励の方針であった。 政府による産業統制が確立され、中央からの指示が各産業団体や組合を通じて、産業構成員の末端にまで行き届き、統制的経済社会になるのは世界恐慌ののち、日中戦争前夜の1930年代半ばくらいからである。 だから大正時代の当時は、スペイン風邪による休業要請というものが存在しない代わりに、当然のごとくその公的補償についてはまったく語られていない(工場が操業中止した場合には作業員に必要な手当てを〈雇用側が〉出したほうがよい、という意見程度)。 今次コロナ禍では休業要請と補償の問題が取りざたされているが、自由放任経済であった大正時代では、こういった問題は基本的に起こらなかった。 100年前もマスクの「不正商人」がいた 公衆衛生の概念が著しく低かった当時、内務省が大々的に奨励したのがうがい・手洗いとマスクの着用である。 とくにうがい・手洗いについては、重曹を希釈したもの、食塩水、過酸化水素水などを用いた口腔消毒が推奨され、県によってはうがい薬の無償配布などが警察署を通じて行われた。 大流行を止めるまでには至らないものの、この奨励は一定の効果はあったと思われる。 さらにマスクの着用については効果大である、として初期から盛んに推奨された。 以下、興味深かった東京府(当時は都ではなく府)、神奈川県、茨城県の3事例をあげる。 <【東京府】マスク・うがいの奨励は衛生懇話によりまたは印刷物の掲示配布、あるいは活動写真館、劇場等における予防の宣伝により大いにこれを奨励したるも、マスクのごときは供給需要に応ぜず、ために不正の商人暴利を貪る等の事実ありて、これが奨励上支障を少なからざりしを以て各警察署をしてこれら不正商人の取り締まりを厳重に行わしめ、一面家庭においてこれが製作を奨励し(中略)活動写真館、劇場入口その他道路交差部において廉売せしめたるにその効果大にみるべきものありたり。 (内務省,200)> <【神奈川県】大正9年1月に至り患者数激増すると共にマスクを使用する者もまたにわかに増加し、ために市価暴騰し1個35銭より80銭に達したるため、一般の使用普及に障害少なからず、よって県は自らこれを製作し実費を以て一般に提供せんと企て(中略)その結果、僅々数日間に予定数1万1600個を作製し、販売価格は1個5銭にして約半数は学校、諸官公庁等の需要に応じ他の半数は一般に提供したり。 (内務省,201)> <【茨城県】マスクは宿屋、料理屋、飲食店、理髪店、鍼灸按摩術営業等の接客業者はもちろん、活動写真館、劇場、寄席等における観覧人ならびに従業者、公私立学校職員、生徒児童、諸工場、銀行、会社等なお多衆集合する場所に出入りする者に関し、半ば強制的にマスク使用を推奨したるのほか、一般にこれが使用を宣伝したる結果、マスクの使用著しく増加せり。 (内務省,201)> 現在のコロナ禍と同様、当時もマスクの需要に供給が追い付かず、マスクを用いた暴利商法を警察が取り締まっていたことがわかる。 100年前も、人の心はそう変わらず、危機の時に一山当てようという「不正商人」が跋扈したようだ。 現代の感覚で「マスク1枚500〜1000円」 注目すべきは神奈川の事例で、マスクの市価1個35銭から80銭に高騰したのを、1個5銭で県が独自に製作し、各種団体を通じて販売した、という事例である。 大正時代後半、米1升(約1. 5キロ)が約60銭。 タクシー料金(初乗り、1. 6キロ)が約50銭だったというから、雑駁に現代の感覚に直せばマスク1枚が500円〜1000円程度に高騰した、というわけである。 県はそれを各種団体を通じて1枚5銭で販売したのだから、これも現代感覚に直せば1枚数十円である。 またこれ以外にも、貧困層に対して在郷軍人会や婦人会などの各種団体を通じてマスクの無償配布が行われている。 こういった各種の努力は現代ではあまり見られない独特のものだ。 4つ目は、当時の内務省が積極的に奨励した予防接種である。 内務省報告書はこの予防接種の効果について、一章を割いて詳述しているものの、残念ながら現在からすれば医学的根拠は全くない。 というのも、当時スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスを人類は観察することが出来ず、当時の専門家ですらパンデミックの原因を「細菌」と考えていたからである。 内務省自身も、大々的に行われた予防接種の効果を「流行性感冒接種の効果はいまだこれを確認し難し」(内務省,401)と認めている。 だが、これが当時の医学水準の限界であった。 100年前のスペイン風邪、日本経済へのダメージはどのくらい? 最後に、100年前のパンデミックは大正日本の経済にどのようなショックを与えたのだろうか。 今次コロナ禍では宿泊業をはじめ、飲食店、興行、その他あらゆる業種に景気後退による直撃が不安視されている。 スペイン風邪流行当時の日本は、1918年に第一次大戦が終わり、その反動減を迎えていた。 とはいえ、1914年から1918年までの戦時景気では、日本の実質GNPは大きく成長し、スペイン風邪の流行期を含んだ1916年から1920年までの5年間、実質GNP成長率は年平均6. 0%成長であった(日本銀行金融研究所『戦間期日本の経済変動と金融政策対応』2002年)。 実のところ丸2年間で約45万人が死亡したスペイン風邪が、当時の日本経済にどれほどの負のインパクトをもたらしたのか、またはもたらさなかったのか、については未研究が多く、余りよくわかっていない。 100年前と現在では死生観が違いすぎ、また国家が主導して民間経済活動に自粛を要請する、という発想そのものが無かったためである。 これを考えると、死屍累々を築いた100年前のパンデミックによる当時の経済的影響は、現代よりもはるかに軽微だったともいえる。 それが良いのか悪いのかは一概に言えない。 こうしてみると、100年前のパンデミックと現在の新型コロナ禍には、驚くほど共通する対処法がある一方、この100年間で社会が複雑高度に発達した割には、「大して変わっていない」という部分に一抹の不安を覚える向きもあろう。 なににせよ、過去のパンデミックの記録を振り返ることは、私たちの未来を占ううえでは基礎知識として欠かせないものであると言える。 <【前編】「100年前5億人が感染したスペイン風邪 なぜ日本も終息に丸2年かかったのか?」を読む> (古谷 経衡) 外部サイト.

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スペイン風邪(1918~1920年)での著名人の死去について(追記あり)

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出町譲(経済ジャーナリスト・作家) 【まとめ】 ・スペイン風邪の発生源はアメリカではなく中国という説あり。 ・新型コロナの最悪想定の推計死者数はスペイン風邪と同水準。 ・致死率も酷似。 甚大被害回避へ、我々は今、最大限の警戒が必要。 スペイン風邪は世界で猛威を振るったが、日本ではどうだったのか。 結論から言えば、前例のないほどの被害が出た。 感染者数は2300万人を超え、死者数は38万6000人だった。 そっくりな数字がある。 今回の新型コロナで推計された最悪の死者数だ。 厚生労働省のクラスター対策班が、対策を講じなかった場合を推計した。 それによれば、最悪41万人の死者になる。 なぜか偶然同じぐらいの数字となった。 対策を講じない場合、最悪41万人の死者が出るとの推計が公表された。 出典:新型コロナクラスター対策専門家ツイッター 新型コロナは最悪、スペイン風邪と同じようなシナリオが考えられるのかもしれない。 そう思うと、背筋が寒くなる。 それでは、スペイン風邪は日本ではいつ、どのようにして起きたのか。 最初は1918年4月だった。 台湾は当時、日本の統治下にあり、大相撲の巡業先だった。 ほかにも20人以上の力士が同じような病気で倒れた。 かつてない異常事態だった。 その後、謎の風邪は、本土に戻ってきた力士から、相撲界に広がった。 さらに軍隊などでも患者が増えた。 「相撲風邪」と呼ばれ、話題となった。 これがスペイン風邪だった。 ここで一つの疑問が浮かび上がる。 以前お伝えしたように、スペイン風邪の発生源は、アメリカのカンザス州での基地というのが、定説となっている。 それは、1918年3月だった。 わずか1カ月の間に、台湾まで感染が拡大し、日本の力士に移ったのか。 飛行機が普及していない時代に、それは余りに早すぎる。 出典:public domain CC0 image/ Original image from Oakland Public Library そこで、専門家の間では、別の可能性が指摘されている。 中国起源説だ。 当時、アメリカでは大陸横断鉄道が建設中で、多くの中国人労働者が出向いていた。 その中に感染者がいたのではないかというのだ。 また、『感染症の世界史』(石弘之)によれば、アメリカのカンザス州で発生する前に、スペイン風邪とみられる呼吸器病が中国の国内ではやっていたという記録がある。 当時行われていた第一次世界大戦では、英仏軍が、9万6000人の中国人労働者を西部戦線で使っていたという史実もあるという。 また中国かと思うと、ゲンナリするが、ともあれ、「相撲風邪」は4月に発生し、7月下旬には収束した。 それほど話題になることもなく、比較的短い期間だった。 これは、以前お伝えしたスペイン風邪の「前兆」だ。 そして、9月末から10月上旬にかけて、スペイン風邪は日本に本格的に上陸した。 「第1波」が牙をむいた。 当初、軍隊で集団感染し、学校や企業にも広まった。 各地で同時多発的に発生した。 国内の鉄道網はすでに整備されており、短期間のうちに全国各地に広がった。 当時の日本の状況について、詳しく分析したのは、慶応大学名誉教授、速水融だ。 速水が執筆した『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)は全国の地方紙の報道を引用し、スペイン風邪の実態を描く。 滋賀県の小学校では、歩兵部隊を視察した後、児童の半数以上が感染し、死亡者も続出した。 小中学校は軒並み休校。 企業も欠勤者が急増し、社会は、機能不全に陥った。 火葬場も大混乱した。 大阪市では、遺体を処理しきれなくなり、大阪駅では、棺桶を乗せた列車が大幅に増えた。 香川県丸亀市では、火葬が追いつかず、土葬に切り替えた。 ちなみに速水は、日本国内でのスペイン風邪の死者数について独自に試算した。 それによると、死者数は45万人で、政府発表の38万人を上回った。 関東大震災の5倍近くの犠牲者を出したことになる。 スペイン風邪は、発症すれば、40度近い高熱が出て、数日間で呼吸困難になり、死亡するケースが多くあった。 特徴は、15歳から35歳の健康な若い人の感染が多かったことだ。 普通のインフルエンザでは考えられないことだった。 人ごみに出なかったり、手洗いを励行することぐらいだった。 公共の場でのマスクの着用も奨励された。 家に厄除けの札を貼ったりする人もいた。 1918年秋に発生したスペイン風邪は、年をまたいだ。 19年2月の朝日新聞は「入院皆お断り、医者も看護婦も総倒れ」という見出しで伝えている。 いまとそっくりな医療崩壊の危機だ。 しかし、この年の春には沈静化した。 気温が上昇したためなのか。 その理由はわからない。 「危機は去った」。 楽観論が浮上した。 ところが、ウイルスはこの年の暮れに、再び大暴れした。 これがスペイン風邪の「第2波」だ。 毒性が強くなって、死亡率が高まった。 東京日日新聞はこう伝えている。 「恐ろしい流行感冒がまたしても全国にはびこって最盛期に入り、死者続出の恐怖時代が来たようだ。 せき一つでも出る人は外出するな。 その人のせいでたくさんの感染者を出すかもしれない」(1920年1月11日付) スペイン風邪は、収束したと思ったら、再び牙をむく。 恐怖の感染症だ。 日本でもかつてない数の犠牲者を出した。 しかし、長い間、歴史上忘れ去られてきた病気だった。 その理由は、日本を取り巻く時代環境にある。 当時は大正中期だった。 大正デモクラシーも盛んだった。 工業生産高が、農業生産高を上回った。 さらに、第一次世界大戦の戦勝国となった。 身の回りに大きな変化があった時期だけに、スペイン風邪は軽視されていたという。 さらに、もうひとつ注目すべきは、致死率だ。 2%程度なのだ。 ペストやコレラなどに比べてずっと低い。 大した感染症ではないという見方が根強くあった。 ただ、致死率が低いと言って、楽観すべきではない。 スペイン風邪の怖さはその感染力にある。 致死率が低くても、感染者数の増加に歯止めがかからなければ、犠牲者は増え続ける。 私はこうした歴史を踏まえ、改めて新型コロナに恐ろしさを痛感した。 スペイン風邪と変わらない。 当たり前の話だが、感染が広まれば、犠牲者そのものは増える。 人から移されないように、最大の警戒が必要なのだ。 スペイン風邪のような甚大な被害が出るかどうか。 我々は今、最大限の警戒が必要になっている。 トップ写真)マスクをする女学生 出典)20世紀2001大事件.

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100年前に日本でも流行したスペイン風邪 マスクの「不正商人」跋扈か

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中国メディアは「100年前に大流行したインフルエンザを鎮めるために、日本人は2年の時間を要した」とする記事を掲載した。 (イメージ写真提供:123RF) 中国メディア・今日頭条は17日、「100年前に大流行したインフルエンザを鎮めるために、日本人は2年の時間を要した」とする記事を掲載した。 記事は、現在日本では新型コロナウイルスの感染者が1日数百人というペースで増えており、日本政府は16日に全国を対象に緊急事態宣言を発令したと紹介。 多くの人が新型ウイルスがいつ収束するのかを議論しているが、どんな専門家も断言できない状況だとしたうえで「実は、100年前に大流行したスペイン風邪が参考になるかもしれない。 日本はスペイン風邪を抑えるのに2年の時間を要したのだ」と伝えた。 そして、1918〜20年に世界で大流行したスペイン風邪は18年9月末から10月初めごろに船に乗って日本にも入り、やはり大流行を巻き起こしたと説明。 当時の内務省が22年にまとめた報告によれば、18年〜21年にかけて3回の流行が発生してようやく収まったとし「このような伝染病は決して1回の流行で終わるものではなく、数回の波が来て終わることが見て取れるのだ」と紹介している。 また、流行当初に感染、死亡した人の多くは身体虚弱者だったものの、感染の拡大に伴って若い人が死亡するケースも増えており、この点は現在世界で流行している新型コロナウイルスと似ているとしたほか、スペイン風邪では第一波よりも第二波のほうが深刻化したと伝えた。 そのうえで「もしスペイン風邪の経験を持ち出すのであれば、新型ウイルスにも感染爆発の第二波が存在し得る。 仮に夏に第一波が抑えられたとしても、第二波がやってくるかもしれない」との見解を示した。 記事はさらに、スペイン風邪が流行した際に日本国内でまず取られた対策が、今回と同様学校の休校だったと紹介。 一方、当時の日本の医療体系は十分とは言えなかったために、医療崩壊が発生したと伝えた。 また、最後には「おもしろいことに、スペイン風邪の流行時もマスクを高値で販売する人がいた。 100年経っても変わらないのだ」とした。 (編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF).

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