東郷 羽衣。 羽衣石城跡へのみち/とりネット/鳥取県公式サイト

自家源泉掛け流しの宿 はわい温泉 羽衣<鳥取県>

東郷 羽衣

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【写真左】主郭付近 探訪したのが9月初旬であったこともあり、草丈が伸びていて遺構部がはっきりしないが、主郭周りは奥行もあり、広々としている。 この南条氏の活動が盛んになるのは、応仁の乱以後である。 明徳の乱(1391)、応仁の乱(1467~77)のために、伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて、南條氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第8代南条 宗勝の時には、守護山名澄之の権力を上回る武力を保持するにいたった。 【写真左】登城口付近にある駐車場 所在地は合併前、東郷町と呼ばれていたところで、現在倉吉市と鳥取市の間に挟まれた湯梨浜町というところにある。 位置的には以前取り上げた 「田内城」「打吹城」(いずれも倉吉市)の東に構えた山城である。 大永4年(1524)、隣国出雲の尼子経久は、伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の 尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城ならびに東伯耆の 八橋城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し、同年5月中ごろまでにはこれらの諸城は降伏してしまった。 南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条 宗勝は因幡へ逃亡した。 これを「大永の5月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子・国久が入城した。 しかし、尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永禄年間(1558~1569)には、支配権を失った。 南条宗勝は永禄5年(1562)に毛利氏の援助により、羽衣石城を回復している。 以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。 【写真左】羽衣石城案内図 北にある東郷湖へ流れる羽衣石川からさかのぼっていき、途中から東側の谷沿いに入ると上記の駐車場がある。 麓にある集落も当時の武家屋敷関係の跡らしく、残念ながら写真は撮っていないが、当時の面影を十分残している。 登り道はかなり傾斜があり、日蔭はあるものの、その分風が吹くところが少ない。 真夏などは相当水分補給しないとつらい登山となる。 天正7年(1579)、織田氏の山陰進出が本格的になると、 南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。 毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが、天正10年(1582)羽柴秀吉の徹平とともに落城し、城主元続は京都へ逃走した。 天正13年(1585)秀吉と毛利氏との間で、領土の確定が行われ東伯耆八橋城を残して、秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。 しかし慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の役で、西軍に属した 南条元忠は没後改易され、羽衣石城は廃城となった。 山城探訪というよりも、手軽な登山の到達点として公園化を図っているようで、遺構の管理までは手が行き届いていない。 【写真左】本丸跡から東郷湖・日本海を見る 俯瞰できる範囲は、北および西方が限度で、東・南は隣接する山並みが高く、ほとんど見えない。 なお、次稿でとりあげる「 馬の山砦」(吉川元春本陣跡)が、この写真の東郷湖北方に見える。 ところで、この山城も上記したように、探訪する時期は夏は避けた方がいいかもしれない。 このとき訪れたのは9月の上旬だったが、とにかく蒸し暑く、風がない状況だったので、ずいぶんと疲れた印象がある。 そうした状況の時は、いつもそうだが、写真を撮る集中力も散漫になり、当城の遺構関係写真をほとんど撮っていない。 南条氏の出自 現地の説明板にもあるように、羽衣石城初代の 南条貞宗は、 塩冶高貞の二男としている。 しかし諸説もあり、完全に断定はできないようだ。 高貞の二男とする出典では、「羽衣石南条記」「伯耆民談記」などがあるとされているが、さらにもう一つとしては、「訳文大日本史」(水戸家蔵版・山路愛山訳)で、この中では、塩冶氏と同族の佐々木氏頼一族が彼を育てたという。 このほかにも諸説あり、はっきりとしたことは分からない。 【写真左】城下の集落 撮影日:2014年1月25日 西麓を流れる羽衣石川沿いには、侍屋敷などがあったという。 現在、この付近には「馬場(東・西)」「市場」「長屋」「赤屋敷」などといった地名が残る。 さらに、上記の説明板にある南条氏が当地を支配する以前に、 すでに南条氏が存在したという史料も見える。 一つは「小早川文書」で、これによると、建武3年(1336)11月、足利尊氏の執事・高師直が、施行状をもって「 南条又五郎」という人物に、「伯耆国富田庄内天万郷一分地頭職」を小早川氏に沙汰付するよう指定している。 施行状を受けて政務をおこなう者は、守護職の分掌に相当する。 もうひとつは当時羽衣石城西南を治めていた 小鴨氏の系図で、 小鴨氏基が「母は南条壱岐守元伯女、元弘元年(1331)3月13日、足利尊氏より加冠(元服)のとき、氏の字を契約…」とあり、このときからすでに南条氏が存在していたのではないかという。 【写真左】倉吉市の定光寺にある南条 元続・元忠・元秋の墓 三基とも南方の打吹山城を見る位置に建っている。 さて、南条氏および羽衣石城の流れは説明板の通りであるが、天正13年ごろから豊臣政権下で統治することになった 南条元続は、関ヶ原の役までの15,6年間のあいだに、羽衣石城から倉吉・ 打吹城へと本拠を次第に変えていったようだ。 実際、羽衣石城を本拠として、東伯耆三郡の政務をおこなうのには地理的に不便だっただろう。 当初打吹城への城番として派遣されていた人物には、 南条備前守・山田越中守・小鴨元清らがいた。 このときから倉吉の近世城下町としての土台が進められたという。 114• 136• 121• 158•

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生涯 [ ] 7代当主・宗皓の子として生まれる。 生年に関する確実な史料は存在しないが、『』によれば11年()、父・宗皓の死去に伴い18歳で家督を継いだといい、逆算して明応6年(1497年)頃の出生かと思われる。 ただ、宗勝以前の南条氏に関しては関係資料が乏しいため、不明な点が多く、一部の系図 では宗勝の父を紀伊守某と記しているものも存在する。 年間、のにより尼子氏の傘下に入り、天文9年()9月には尼子氏の攻撃に参加した。 しかし3年後の天文12年()にはの攻めに「尼子公叛将」として大内軍に参加、を経てそれ以後はの下へ属した。 天文15年()には但馬の支援でを起こすなど各地の反尼子勢力と手を結び、反尼子の一翼を担う働きを為した。 また、天文16年()~17年()にかけてに滞在していたことが分かっている(『真継文書』所収「年不詳4月8日付南条国清書状」など)。 その後、事情は不明であるが、の勧めでの地へと移り、さらににまで移ることを示唆している。 これ以降の足取りは不明であるが、伯耆を離れた後は各地の武将に援助されながら、周辺諸国を転々としていたと見られ、以後約20年間近く帰国は叶わなかったと思われる。 その後、毛利氏の支援を受けた宗勝は5年()の夏、羽衣石城を奪回、約20年ぶりに所領を回復することに成功した。 帰国後はらの容認の下、東伯耆の衆を家臣団に組み込み、南条氏を東部で最大の国人勢力に発展させた。 永禄6年()にはの光孝寺において大規模な父の法要を営み、各地の寺社の所領を安堵するなど民心の安定に務めた。 永禄12年()には毛利氏の九州遠征に加わり、などへ出陣した。 同年秋にはに急遽帰国し、各地へ侵攻したらの軍勢と戦った。 元年()、剃髪して宗勝と号し、嫡子・又四郎元続に家督を相続させたと伝えられているが、実際には永禄7年()8月以前には剃髪し、宗勝と名乗り始めたようである。 その後も終始毛利氏の境目地域における要の役割を担い、毛利氏の協力者として活躍した宗勝だったが3年()10月14日前に急死した。 なお、死因に関して主・に毒殺されたとの説が存在するが、これはに書かれた『』などに見えるものであり、史料的裏付けはなく、現在では否定されている。 脚注 [ ]• 『系図綜覧』下巻所収「南条氏系図」、「諸家系図類」山田府生差出「南条系図」。 後者の系図では宗勝の父を「繁之 紀伊守伯耆一州守護代」と記している。 元亀元年に剃髪したとする説は後世になって編纂された『羽衣石南条記』によるものである。 一方、宗勝が生きていたのと同時代の史料には、すでに「宗勝」の名が確認されている。 (『山田家古文書』所収「永禄7年8月2日付毛利元就書状写」) 関連項目 [ ]• 参考文献 [ ]• 鳥取市『新修鳥取市史 第一巻』1983年• 高橋正弘『因伯の戦国城郭 通史編』自費出版、1986年• 高橋正弘『山陰戦国史の諸問題 上』自費出版、1993年• 東郷町誌編纂委員会『東郷町誌』東郷町、1987年• 東郷町教育委員会『羽衣石城址 鳥取県東郷町羽衣石城跡遺跡調査報告書』1993年• 新編倉吉市史編集委員会『新編倉吉市史 第2巻 中・近世編』倉吉市、1995年• 財団法人国府町教育文化事業団『山崎城史料調査報告書』2003年• 鳥取県公文書館県史編さん室編『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』鳥取県、2010年 先代: 第8代当主???? - 1575年 次代:.

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