カルメル 会 修道 女 の 対話。 サンパオリーノ

カルメル派修道女の対話

カルメル 会 修道 女 の 対話

特に期待していたわけではない。 何しろ新国立劇場オペラ研修生の上演。 指揮のジェローム・カルタンバックという人も、演出のロベール・フォルチューヌという人も知らない。 そして、『カルメル会修道女の対話』というオペラも、好きなオペラというわけではない。 かつてベルナノスの原作を読んだが、あまりの生真面目さに馴染めなかった。 プーランク作曲のオペラも何だかよくわからなかった。 同じプーランクの『声』は好きなオペラだが、それに比べて何と退屈なんだと思っていた。 数年前、小澤征爾指揮、サイトウキネンでこのオペラを見た。 また、つい最近、ムーティ指揮、スカラ座によるDVDも見た。 もちろん悪くなかった。 「なるほどこんなものか」と思った。 だが、感動するまでにはいたらなかった。 何だかよくわからんオペラだ・・・という印象は消えなかった。 上演には期待しないまま、よくわからないオペラの正体を見てみたいつもりで、昨晩、新国立劇場(中劇場)での新国立オペラ研修生と東京ニューシティ管弦楽団の上演に出かけたのだった。 ところが、昨晩の上演を見て、大いに感動した! そして、これまで私がこのオペラに違和感を覚えていた理由がわかった。 これまで私が見た上演は、すべてあまりにオペラティックに演奏しすぎていた! 神に仕えながら死を前にして錯乱する修道院長をまるでワーグナーのように歌っていた。 とりわけ、ムーティのDVDのアニア・シーリアは声の艶は失いながらも、かつてバイロイトで歌っていた時と同じように熱唱していた(しかも、フランス語とは思えないメチャクチャな発音! シーリアは好きな歌手だが、ちょっと幻滅)。 すべて最後の処刑を盛り上げるために、ドラマティックに音楽を作っていた。 もちろん、小澤もムーティも超一流指揮者だから、それを極めて精緻に美しく表現していた。 だが、あくまでもドラマとして、オペラとして演奏していることに変わりはなかった。 だが、そうすると、このオペラの最も美しい部分が失われるのではないか。 「この曲はオペラではない。 対話(ディアローグ)なんだ」と初めて気づいた。 これを無闇に盛り上げてはいけない。 抑制し、対話を重視し、フランス語の響きを大事にし、一つ一つの音を大事にして演奏する。 そうすると、対話の向こうからじわじわと魂の苦悩が浮かび上がってくる。 そんな曲なのだ。 ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』と同じように、反ドラマの音楽なのだと思った。 私のこれまでの違和感は、盛り上げようとしていないオペラを、盛り上げようとしている演奏のせいだったのだと思った。 その点、研修生たちを中心とした演奏は素晴らしかった。 ブランシュを歌った木村眞理子の清楚な歌声、修道院長の茂垣裕子(研修生ではなく賛助出演らしい)の抑制した苦悩の表現も素晴らしい。 コンスタンス役の山口清子もほかの修道女たちも見事。 男声陣もまったく引けをとらない。 研修生でこれだけのレベルのものが歌えるなんて! そして、何よりも指揮と演出に感服。 この二人の解釈のおかげで、これがディアローグとしてオペラになっていたのだと私は思う。 そして、この二人がフランス人だったおかげで、歌手のフランス語がきちんとしたフランス語になっていた。 それだけでも、このオペラの雰囲気が変わっている。 ・・・ただ、オーケストラの練習不足は大いに気になった。 ともあれ、超一流の演奏家たち以上に感動させてくれた研修生主体の舞台だった。 『カルメル会修道女の対話』は私の大好きないペラになりそうだ。

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カルメル 会 修道 女 の 対話

作曲:Francis Poulenc(プーランク1899~1963) 内容:フランス革命の時、革命派によって特権階級だったキリスト教聖職者が弾圧された際に、革命派に従わずに信仰を貫いたために、ギロチン刑になったコンピエーニュのカルメラ会の16人の修道女の史実に基づいて書かれたドイツ人作家G. Von Le Fortの小説「断頭台下の最後の女」にヒントを得て、G. Bernanosが台本を書いた。 重いテーマながら、プーランクの冴えた音楽は美しく、フランス語と音楽が見事に融合して、有名なラストのギロチンシーンが際立つ傑作。 3幕 フランス語 あらすじ 第 1幕 第 1 場 時はフランス革命ジャコバン派恐怖政治の末期。 フォルス侯爵(バリトン)は、 書斎でうたた寝している。 そこへ息子の騎士フォルス(テノール)が、妹ブランシュの乗る馬車が群衆に取り囲まれて身動きできないという知らせを聞いて心配だと言いにくる。 父は家の馬車は頑丈だし、馭者も信頼のおける男だから大丈夫だと安心させるが、兄は、妹ブランシュは生まれつき神経過敏で恐怖心が強いから心配だと言う。 そこへブランシュ(ソプラノ)が帰ってくるので、侯爵は安堵するが、ブランシュはコンピエーニュの修道院へ入りカルメル派の修道女になる決意をしたのでお許しをと言いだす。 父フォルス侯爵は、革命で世の中が恐ろしいからと言って逃避するのは良くないと言うが、彼女の決意は固い。 第 2場 数週間後、ブランシュは、カルメル派修道院を訪れ、修道院長のクロワシー夫人(アルト)に修道院へ入れて欲しいと頼む。 修道院長は「修道院とは祈る所であり、世俗の危険から逃れるために入る所ではない」と言い、「神は貴女の力ではなく弱さを試されるのだと」諭す。 しかしブランシュがかつて自分が望んでいたのと同じ修道名を望んでいること知り、因縁のようなものを感じ、ついには彼女を受け入れる。 第 3場 ブランシュは、若い修道女コンスタンス(ソプラノ)と食物を受け取りにきて、彼女があまりにも明るく快活なので「修道院長様が重病なのに、あなたは死が怖くないの?」と咎(とが)める。 コンスタンスは「私は院長様の身代わりに死ぬことだってできるし、あなたと初めて会った時に私たちは若くして同じ日に死ぬ夢を見たわ」と答える。 第 4場 死期が迫った修道院長は、メール・マリー(メゾソプラノ)を呼び、一番若いブランシュを支えるようにと遺言し、入ってきたブランシュにも「いつまでも、今の様に純粋な気持ちでいなさい」と言う。 鎮痛剤を与えられない院長は苦痛に耐えきれず錯乱し「祭壇は2つに割れた」と叫ぶが、再びブランシュが入って行くと、院長は正気を取り戻して、死の恐怖に襲われたことを神に許しを乞い死んでゆく。 第 2幕 第 1場 礼拝堂で、ブランシュとコンスタンスは、まだ蓋を閉めていない修道院長の棺の守番をしている。 鐘が鳴り、コンスタンスは交代の修道女を呼びに行き、一人になったブランシュは怖くなって扉へ向かうが、出くわしたメール・マリーに棺から離れないよう咎められる。 幕前劇 ブランシュとコンスタンスは、お棺に入れる花の準備をしながら、新しい修道院長は誰だろうと噂をしている。 コンスタンスは「院長様が臨終の時に錯乱されたのは本来のお姿ではなく、他の臆病な誰かの身代わりを引き受けたのでは」と思案し、「その臆病な誰かは勇気と落ち着きを持って死に望むのだろう」と結論するので、ブランシュはハッとする。 第 2場 新しく修道院長に選ばれたリドワンヌ夫人(ソプラノ)が、修道女たちに前院長と同じく祈ることが一番大事であると話し、皆で祈祷する。 幕前劇 ブランシュの兄フォルスが、ブランシュに面会を求めて修道院を訪れ、リドワンヌ修道院長はメール・マリーの立ち会いの下、それを許可する。 第 3場 兄フォルスは、修道院の中が安全ではなくなってきたと父も心配していると告げて、ブランシュを連れ出そうと説得するが、彼女は修道院に留まることを選ぶ。 兄フォルスが去った後、自分の気持ちがわかってもらえないブランシュは悲しみ、メール・マリーに励まされる。 第 4場 礼拝堂司祭(テノール)が、政府によって宗教上の集会が禁じらたのでこれが最後のミサになると告げて礼拝し、僧服を脱いで修道院を出て行く。 修道女たちは、革命の波が教会にまで押し寄せてきた恐怖を嘆き、メール・マリーは殉教を主張するが、リドワンヌ修道院長は殉教すべきではないと説く。 群衆に追われて戻ってきた司祭が、再び裏口から逃げると、表の扉をたたく音。 群衆と一緒に政府役人が入って来て、修道院を解散させ建物を接収すると宣告する。 メール・ジャンヌ(アルト)が、リドワンヌ修道院長はパリに行くことになったと告げてキリストの陶器像をブランシュに渡すが、感動した彼女はそれを床に落として割ってしまい「私たちの小さな王は消え、犠牲のための小羊だけが残った」と泣く。 第 3幕 第 1場 破壊された礼拝堂で、一般服を着た司祭と修道女たちが、最後の秘密集会を開いている。 メール・マリーが、殉教すべきか否かを無記名投票にかけ、反対票が1票でもあれば殉教しないことを提案して皆が投票する。 結果は反対票が1票で、修道女たちはブランシュが投じたものと推測するが、意外なことに、反対票を投じたのはコンスタンス。 しかし、コンスタンスは反対票を撤回すると宣言し、修道女たちは殉教することになる。 この間に、怖くなったブランシュは修道院から逃げ出す。 幕前劇 パリから戻ったリドワンヌ修道院長以下、平服になった修道女たち。 役人が、法王は革命軍の敵である故に法王に従う司祭には会ってはならぬと言い、市民が常に見張っていると警告する。 第 2場 修道院を逃げ出したブランシュは、革命派に占拠されたかつての自宅の旧フォルス侯爵邸で女中になっている。 突然メール・マリーが現れ、殉教の時が来たので戻るように言うが、ブランシュは迷う。 メール・マリーは「救いは天のみにある」と説得するが、ブランシュは父も処刑された今はどうしてよいのか解らないと言い、メール・マリーは明日の晩まで待つと言って去る。 第 3場 修道女たちは、コンシェルジュリ監獄で初めての夜を迎えている。 リドワンヌ修道院長は、何者にも信仰を奪うことはできないと説き、感動的な詠唱を歌う。 コンスタンスは、ブランシュはどこに行ったのかと尋ねるが誰も知らず、彼女がブランシュが戻って来る夢を見たと言うので皆は笑う。 役人が牢獄に入ってきて、修道女たちが革命を転覆する企てをしたとして、全員を死刑にすると宣告する。 幕前劇 昨夜までブランシュを待っていたメール・マリーが、バスティーユ近くの路上で司祭に会う。 司祭から修道女たちが死刑になると聞いたメール・マリーは自分も殉教すべく刑場へ向かおうとするが、司祭から、神があなたの命を救うことを望んだのだと説かれる。 第 4場 群衆が、ギロチン台の置かれた革命広場での修道女の処刑を見に集まり騒いでいる。 群衆の中に紛れて革命派の服を着た祭司は、前を通る修道女一人一人に、隠れて十字を切り祝福する。 修道女たちは、「サルヴェ・レジーナ」を歌いながら処刑台へ向かい、一人ずつギロチンにかけられるが、その中にメール・マリーの姿はない。 コンスタンスが最後の一人として処刑台に立った時、彼女は群衆の中にブランシュを見つけて微笑み、堂々と断頭台へと進む。 ブランシュは驚く群衆をかき分けて進み出て、コンスタンスの途絶えた歌を引き継いで「来たり給え、創造主なる聖霊よ」を歌いながら後に続き、彼女の歌が消え、静かに幕となる。

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カルメル 会 修道 女 の 対話

人は何のために祈るのだろうか? 20世紀フランスの作曲家フランシス・プーランク(1899-1963)のオペラ「カルメル会修道女の対話」(1957年初演)は、まさにこの「祈り」が主なテーマとなっている。 つい先頃、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ(=愛称MET)で上演された舞台(ヤニック・ネゼ=セガン指揮、ジョン・デクスター演出、2019年5月11日)が、「METライブビューイング」として全国各地の映画館でも上映され、私も久しぶりにこの作品に接することができた。 物語は比較的わかりやすい。 1789年のフランス大革命の頃。 デリケートな内面を持つ貴族の娘ブランシュは、世を避け、厳格な戒律で知られるカルメル会に修道女として入り、信仰生活を求めるようになる。 やがて革命政府は聖職者を特権階級とみなして破壊・略奪し始め、カルメル会の修道女たちは逮捕される。 台本は作家のジョルジュ・ベルナノス。 礼拝堂を追い出され、平服となった修道女たち。 死刑を宣告され、群衆に囲まれた中、聖歌を歌いながら一人ずつギロチンにかけられていく c Ken Howard/Metropolitan Opera 彼女たちのセリフには、こんな言葉が出てくる。 「あの修道女たちは一体何の役に立っているのか、と人々は言うでしょう。 それも無理からぬことです。 この修道会は苦行したり徳を守るための場ではありません。 ここは祈りの場であり、祈りだけが私たちの存在を正当化するのです。 祈りを信じない人は、私たちを詐欺師か、寄生虫のように思うでしょう。 神の存在が普遍的であるならば、祈りもそうではありませんか? どの祈りも、たとえ羊の群れを守る牧童の祈りであっても、それは人類の祈りなのです」(クロワシー修道院長) 寄生虫、という言葉は心に突き刺さる。 それは修道女たちだけの問題ではない。 「一体何の役に立っているのか」と世間から思われるようなすべての芸術や文化についても、それは置き換えられるだろう。 祈りなんて必要ないじゃないか。 何の役にも立たないくせに。 世間からそのように胡散臭く見られていることに、修道女たちはとても敏感である。 なぜ私たちはここにいるのか。 彼女たちは決して修道院の中の儀式的世界に安住しているのではなく、騒乱と不安の世の中において、自分たちのやっていることの意味を繰り返し問うている。 そんな修道女たちの対話に共感してしまう人は、案外多いのではないだろうか。 この立派なクロワシー修道院長(カリタ・マッティラ、鬼気迫る演技だった)は、重病に冒されている。 新入りの若い修道女ブランシュ(イザベル・レナード、歌も姿も繊細で美しい)を自分の娘のように気遣いながら、苦痛のなかで錯乱し、ついにこんな言葉さえ口走ってしまう。 「哀れな私なのに、こんなときに神のことを考えてどうなるというのです。 神の方にこそ、私のことを考えて欲しいわ!」 貴族の娘で繊細な感受性をもつ若い修道女ブランシュ(イザベル・レナード)らが祈りを捧げるシーン c Ken Howard/Metropolitan Opera 立派な人格者で何十年も信仰生活を続けてきたクロワシー修道院長は、苦悶にのたうち、死の恐怖におののきながら、惨めな最期を遂げる。 どんなに高潔な精神も、肉体の痛みの前には、こんなにも脆いものかと、見せつけられるようなシーンである。 ブランシュの親友となった若い修道女コンスタンス(エリン・モーリー)は、奇妙な洞察力を持っていて、この修道院長の壮絶な死について、こんな独特の見方を述べる。 「院長様があれほど苦しんで、後味の悪い亡くなり方をされるとは、誰が予想したでしょう。 まるで神が死を与える相手をお間違えになったようだわ。 そうよ、あれは他人の死だったに違いない。 だから院長様は他人の服みたいに、袖を通すことができなかった。 …人はそれぞれが自分の死を迎えるのではなく、互いのために死を迎えるの。 だから他の人の代わりに亡くなることだって、あるんじゃないかしら」 これは「死の哲学」だ。 自分の死を死ぬのではなく、他人の死を死ぬこともある…不思議な説得力を感じさせる部分である。 修道女たちのなかで最も気が強く厳しい性格で、ブランシュを叱咤激励するマザー・マリー(カレン・カーギル)も、興味深いことを言っている。 「高慢に勝つ方法はただ一つ。 高慢よりも高いところに昇ることです。 誇り高くありなさい」 「不幸なのは他人から軽蔑されることではなく、自分自身を軽蔑することだけなのです」 これは、誰にとっても励ましとなる言葉ではないだろうか。 自分のやっていることは無意味なのではないか、自分は本当は馬鹿にされてもしょうがない、卑しい人間なのではないか。 ついそう思ってしまうすべての人にとって。 この誇り高さは、プーランクの音楽にも反映されていて、大聖堂の柱のように決然とした響きが随所に出てくるのは、おそらくこの誇りと関係がある。 プーランクの音楽でもうひとつ大事なのは、この誇り高さとともに、甘い優しさ、うっとりさせられるような響きがあるところだ。 ネゼ=セガンの指揮するメトロポリタン・オペラのオーケストラは、こうした甘い音色や、ダイナミックで厚みのある響きにおいて、見事な迫力があった。 ヴィブラートの大きい、深く揺れるような歌い方の合唱も、METならではの説得力があった。 祈りを終えた修道女たちが、大地に口づけするように全員がうつぶせになり、腕を広げると、十字架のなかに天使が羽ばたいているように見える。 宗教的法悦と、性的法悦は、美術の世界でもよく似ているということが言われる。 プーランクの音楽が真にフランス的だと思えるのは、その奥義にもっとも近づいた官能的な美を、とろけるような甘さを、敬虔さの中に含んでいるからである。 こうしたプーランクの音楽に匹敵するものを、当時のフランスの美術に求めるならば、ジョルジュ・ルオーの絵が挙げられると思う。 戦争と騒乱の時代にあって、ひたむきに聖書に基づく絵のなかに朴訥で心に染み入るような優しさと愛を込めていたルオーの精神と、プーランクの祈りの音楽は、一脈通じるものがある。 どちらも、心の真ん中に、ポッと明かりが灯される感覚がある。 その新しさと大切さは、時代の残酷さとの対比において考えてみれば、よりはっきりする。 このオペラのラストシーンは、誰しもが戦慄せずにはいられない。 ただひとつ言えることは、祈りが人を強くする、穏やかにする、美しくする、ということだ。 今回の上演を観ていて改めて思ったのは、この修道女たちは、さまざまな意見の違いやすれ違いを克服しながら、決して強制されることのない、一人でも反対者がいれば犠牲を強要することのない、やわらかい友愛の共同体を作っていたということである。 祈りもまた、彼女たちなりの戦いなのだ。 ラストシーンで、ギロチンで修道女たちが首を一人一人はねられ、聖歌をうたう声が一人また一人と途絶えていくのを、観客は息を詰めて見守ることになる。 それは、優しさの連帯が、愛が、死の恐怖に対して打ち勝つ瞬間を見届けるということでもある。 この世でもっとも美しいものを見せてもらったという感覚、それがこのオペラを観終わっての余韻である。 20世紀フランスの文化と芸術に関心のあるすべての人が、「カルメル会修道女の対話」を体験されることを、願ってやまない。

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