渥美 俊一。 チェーンストアのマネジメント チェーンストアの実務原則シリーズ : 渥美俊一

渥美俊一記念館訪問記

渥美 俊一

小雨模様の9月のとある日、待ちに待った渥美俊一記念館の訪問日がやってきました。 東京・代官山にある渥美俊一記念館は、ニトリホールディングスの似鳥会長がニトリの成功を導いた先生として尊敬する渥美俊一氏の功績をたたえて設立したものです。 もともと渥美俊一氏の邸宅だった物件をニトリが取得して、記念館としてオープンしました。 似鳥会長も述べているように、日本経済に大きく貢献した渥美俊一氏は、その偉大な功績に比して、必ずしも世間には広く知られていません。 そこで、似鳥会長が世の中でもっと評価されるべきだという気持ちから設立したものです。 私も弊著、「日本の問屋は永遠なり」を書くに当たって、改めて渥美俊一氏の著書の多くを参考にさせていただく中で、これほどの情熱を持って、日本にチェーンストアを根付かせようとしたその心意気に強く感銘を受けました。 もはや単なるコンサルタントの域に納まるようなものではありません。 参考「日本の問屋は永遠なり」: 2016年4月に連載された日経紙の似鳥会長の「私の履歴書」の最終回で渥美俊一記念館開設の報告があり、今か今かと心待ちにしていたところでした。 当日はニトリの方2名に館内をくまなく案内してもらいました。 まずは、その渥美邸の意義を解説してもらうところから始まりました。 同館は氏が1994年に自ら設計し、自宅として建設したもので、まさに邸宅と呼ぶにふさわしいたたずまいの家屋です。 完全に欧風建築なのですが、南カリフォルニアをイメージして設計したということでした。 ただし、この記念館はただ単に渥美俊一氏がそこで生活していたということではなく、実は氏がその邸宅を建てるにあたって、小売業の参考になるような日本の小売業が目指すべき姿を示したものだということが大きなポイントになります。 典型的には各部屋のコーディネートがあります。 氏が常々著書において述べていたことは、日本人は極めて貧しい生活をしているということでした。 これは日本では産業としてのチェーンストアが発達していないために、流通が非効率であり、結果的に消費者が高い商品を買わされているという指摘でした。 また、品揃え自体もばらばらで、そのような商品を個々に買い求めても、それぞれが異なった風合いの商品であって、部屋のインテリアにもマッチせず、商品ごとにもマッチしない組み合わせになっていることを嘆いていました。 これらのことをまとめて渥美氏は、貧しい生活と表現していました。 【渥美邸の外観】 そのような状況を改善するためには、効率的なオペレーションのチェーンストアを作ることによって、商品の価格を2分の1、3分の1にする必要があると説きました。 同時に単品をバラバラに売る売り方ではなく、売り場において顧客に対してコーディネートを提案する必要があるとも述べています。 それによって初めて国民が豊かな生活を実感できるようになるというのが同氏の主張の中心です。 例として、渥美邸のリビングの様子を示します。 これらのソファー、テーブル、スタンドから棚に飾ってあるインテリアまで、実は一つの売り場で揃えたものです。 つまり、一つの売り場で揃えられるということが重要で、売り場自体がコーディネートを提案しているということになります。 まさに、ニトリが現在店舗で展開していることが、このコーディネートというものであり、それがニトリの生命線になっています。 写真の商品は、すべて米国のサンフランシスコのニーマンマーカスで購入したものです。 一見豪華に見えますが、価格的にはリーゾナブルなものだということです。 まさにこれが、チェーンストアの使命であると氏は主張しているわけです。 【渥美邸のリビングのコーディネート】 このようなコーディネートは、リビングだけでなく、寝室、書斎、さらには風呂場までそれぞれに統一されたコーディネートとなっています。 寝室はベッドから壁紙まですべて、J. ペニーで揃えたコーディネートでした。 風呂場は、水族館のようなタイル張りで、これは米国から職人を呼び寄せて一枚一枚のタイルを製造したものです。 玄関正面にはピカソの版画がかかっていました。 1962年作の肖像画(?)でした。 ここで、実は1962年がかの「流通革命」が発刊された年だということに気づきました。 すると実は渥美氏も1962年がまさに「流通革命」元年と位置付けていたこともあり、この版画を買ったと聞いて、ちょっと感動しました。 もちろん、渥美氏にとってはこの年がペガサスクラブの設立の年というもっと重い意味がありますが。 しかし、渥美氏と「流通革命」はまさに切っても切れない縁ということは間違いがありません。 玄関の上がり口の床は、イスタンブールのブルーモスクをイメージしたタイル敷きとなっています。 しかし、実はそのタイルを入手したのはアメリカということでした。 渥美氏はかねてより、チェーンストアが発達したアメリカでは、世界中の商品が手軽な価格で買えると述べています。 それこそが、まさに日本でアメリカ方式のチェーンストアを構築しようというペガサスクラブのビジョンの最大のバックグラウンドになっています。 玄関のシャンデリアは極めてシンプルなもので、豪華さを取り除いている部分でおしゃれ感を醸し出していました。 そのシャンデリアは渥美氏自らフィレンツェで購入ものということです。 また、玄関から2階に続く階段はスペインのガウディをイメージものとなっています。 その後、2階ではすでに述べたように部屋全体がコーディネートされた寝室や風呂場を見学しました。 そして、最後が渥美氏の書斎になります。 この邸宅はもともと渥美氏の自宅であり、ここで家族と生活し、執筆、研究活動を行っていたわけです。 そして、ここに小売業の経営者を招いて、コーディネートの大切さを説き、また日本でのチェーンストアの構築法に関して議論したのです。 こうして記念館の見学をほぼ終えて思ったのは、ところで一体どんな人がこの記念館を訪れるのだろうということでした。 私が当初、記念館について思い描いていたイメージは、実は渥美氏の研究成果や書籍などの資料を集めた資料館というものでした。 もっとも、そう思ったからというよりも、渥美俊一と聞いてこれは是が非でも行かねばならないと思い、オープン日も知らずに代官山を訪ねたのは、実は5月の初めでした。 前掲の外観の写真はその時に撮ったものです。 その後、決算説明会後の懇親会の場で似鳥会長に尋ねたところ、オープンは8月ということでしたので、とにかくオープンしたらすぐ見学させてほしいとお願いしていて、今回の訪問となりました。 そんな状況でしたので、すべての見学が終わった後に、一体どんな人が記念館を訪れるのか尋ねてみました。 すると、実は外部の見学者は私が初めてということでびっくりしました。 記念館の主な目的の一つは、ニトリの社員研修に使用するというものだったのです。 同社ではペガサスクラブのセミナーに多くの社員が参加していますので、中堅以上の社員の多くは直接渥美氏の講義を受けたことがあるのでしょう。 しかし、若い社員は渥美俊一氏本人を直接は知らないわけですので、この記念館で渥美俊一氏の精神や思いを共有しようというものです。 特に似鳥会長が熱を入れるコーディネートの価値を深く理解するには大きな意味を持つことでしょう。 企業にとっては、企業文化をいかに共有するかは極めて重要な問題です。 その意味において、ニトリの原点あるいは遺伝子とも言える渥美俊一氏の思いを共有するには絶好の教材であると思いました。 長期にわたって着実に、継続的に成長できる強い企業と言うものは、社員が良い面で企業文化を共有しているものです。 キユーピーという会社もそんな会社の一つですが、かつて同社が史料館を開設した時に、その史料館を見学する機会を設けてもらいました。 そこでは、過去幾多の困難を乗り越えてきた先人たちの会社への思いを共有することに力を入れる展示になっていました。 まさに存亡の危機に瀕した事件をいかに情熱で乗り切ったかを共有できるようになっています。 まさに、ニトリにとっては、この渥美俊一記念館はそんな位置づけであると認識させる訪問となりました。 そして改めて、氏の日本の流通革命への思い、チェーンストアが目指すものへの思いとロマンに深く感銘を受けた見学となりました。 また、ニトリの企業としての強さを深く理解したことも大きな収穫の一つでした。 最後に改めて、館内を細部にわたり案内していただいたニトリのご担当の方に深く感謝いたします。 2016年10月吉日 有賀.

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ニトリ会長を導いた、経営の師の教え 劣等生が「先生」に認められるまで

渥美 俊一

生涯 [ ] 幼少期 [ ] 車坂町(現・七丁目)で、地方新聞の新聞記者をしていた父・友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母・タツとの間に次男として生まれる。 兄に健一郎がいる。 11月、に入学。 、一家でに転居し、へ転入。 小学生時代はいわゆるであり、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。 そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。 欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾けやを聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。 に板橋城山高等小学校 に入学。 中のにに入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。 に同校を卒業するも、ので自宅が被災し焼け出される。 卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やの手伝いもしていた(親友のに、かつて自分は桝屋一家 に身を寄せていた、と語ったことがある)。 この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。 役者稼業 [ ] には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。 入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。 知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。 なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。 、東京の劇場「百万弗劇場」(建物したの跡)の専属コメディアンとなる。 2年後のには、へ移籍。 この頃のフランス座は、、、など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家としてが出入りしていた。 またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる(当時は大学生)と知り合い、生涯の親友となる(後述参照)。 、で右肺を切除しで約2年間の療養生活を送る。 このサナトリウムでの療養体験が後のに多大な影響を与えたと言われている。 右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。 また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野のに1年近く入院する。 再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。 にテレビデビューし、に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。 にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・とを結成。 しかし、数ヵ月後には脱退している。 からまでNHKで放映された『』、『』に出演。 コメディアン・渥美清の名を全国区にした。 公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初を務める。 同年、連続ドラマ『』でのギューちゃん役がうける。 同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。 当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『』(、、、)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。 の監督の映画『』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。 この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。 公開の、監督の『』では各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。 この撮影以降、の魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。 「男はつらいよ」のイメージからはうかがえないが、最初はよりの方が渥美喜劇の売り出しに熱心で 、東映で"路線"を敷こうとした (のち、東映社長)に引き抜かれ 、岡田が登用した監督の『』()他「喜劇列車シリーズ」などに主演した。 東映とは水が合わなかったが 、東映での出演作としてはの最高傑作ともいわれる 『』(監督、)の身延の朝吉役は名演として知られる。 この時期の主演作品としては他に、のテレビドラマ『』(1966年)などがある。 車寅次郎 [ ] 1968年から半年間、にて、テレビドラマ『』が放送され、脚本はとが担当した。 最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、が映画を製作。 これが予想に反し大ヒットとなったことでシリーズ化され、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。 映画のシリーズでは最多記録の作品としてにも載るなどの記録を成し遂げた。 、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『』を自身主演で製作公開する。 、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。 には製作の『 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。 同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。 この成功を受けて同作品はシリーズ化されに『 旅路の果て』が、には『 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。 映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。 当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。 唯一1977年『』でそれまでのイメージを一新して名探偵「」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。 にで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では、の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。 また、この時期、監督が『』の主役・榎津巌役でオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている [ ]。 1980年代以降になると、当時のの思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていたこともあって、『』シリーズ以外のは無くなっていく。 にを受章。 その後は主演以外での参加も次第に減っていき、に公開された映画『』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。 晩年、死 [ ] 晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。 『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。 44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。 スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。 ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。 体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。 病気については、にが見つかり、にはへのが認められた。 主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたが何とか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。 6月に第49作製作の件でロケを承諾し、撮影を控えていた中、7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。 1996年8月4日午後5時10分、のためのにて死去した。 68歳没。 「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。 骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけでを行い、遺体は東京都内ので荼毘に付された。 撮影現場には二日後の6日の夕刻、秋からの制作が決定していた第49作の制作打ち合わせに来たスタッフへ妻より告げられ、訃報は3日後の1996年に松竹から公表された。 男はつらいよの第48作『』が遺作となった。 に松竹大船撮影所で開かれた「寅さんのお別れの会」では、山田洋次が弔辞を読んでいる。 5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。 体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。 この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。 そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。 医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。 ああ、悪いことをしました。 後悔しています。 つらい思いをさせてすいませんでした。 7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。 何故そんなに苦しめたのか。 27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。 スタッフも幸せでした。 心からお礼を申し上げます。 死後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」との理由で、から渥美に国民栄誉賞が贈られた。 俳優での受賞は、に死去したに次いで2人目である。 妻は熱心なカトリック信徒で、渥美自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていたことが明らかになっている。 に発表された『』の「・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第4位になった。 さらに、「」日本編では第1位。 人物 [ ] 経歴についての異説 [ ] 渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。 著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。 に卒業し、14歳で志村坂上のに入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。 関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、卒業していたのかしていないのかだけでなく、在籍の有無ですら公式には何とも言えないという。 ただし、何人かのOBの証言によれば、「在籍はしていたが、卒業はしていない」とのことである。 によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、で部品を買いを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。 実像 [ ] 柴又駅前に立つ 車寅次郎の銅像 『男はつらいよ』の「寅さん」の演技で社交性のある闊達さを印象付けていたが、実像は共演者やスタッフと真摯に向き合う一方で、公私混同を非常に嫌い、プライベートでは他者との交わりを避ける傾向だった。 ロケ先での、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがなく、時々スタッフにファンへの感謝の気持ちをことづける程度だった。 撮影現場でも見物人が「寅さん」「渥美さん」など声を挙げても、黙って笑顔を見せるか丁寧に頭を下げるくらいで、身辺へ個別にファンが近寄ることも嫌っていた。 家族構成は妻と子供2人だが、に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。 長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。 渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。 芸能記者のは招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。 渥美はの熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。 タクシーで送られる際も自宅を知られぬように「この辺りで」と離れた場所で降りるのを常としていた。 渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。 これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。 このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。 実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も、時々はスタジオやロケでスタッフや共演者と共にすることもあったが、店を選ばずに一人で適当な蕎麦屋などで済ませることも多かったという。 そんな渥美であったが、脚本家・とは20代に銭湯で知り合い、早坂を「ギョウさん」と呼んで、何度もプライベート旅行に行くなど終生の友であった。 渥美は常に「ギョウさん、俺も連れてってちょうだいよ」と早坂との旅行を大変楽しみにしていた。 東京生まれのため田舎を持たない渥美にとって、特に早坂の故郷である(現・)や、沖合いにある「」はお気に入りで何度も同行している。 晩年の渥美の俳句「お遍路が一列に行く虹の中」は、早坂作のNHKドラマ『』(早坂の自伝的ドラマ。 渥美はナレーション担当で、がモチーフになっており、舞台は愛媛県北条市)および早坂への想いであると思われる [ ]。 このことが実現しなかった第49作『寅次郎花へんろ』の元になった。 渥美の死後発見された晩年の手帳には「……旅行に行こう。 家族とギョウさんにも声かけて一緒に行こう……」と綴ってあった。 これらの内容からも、渥美にとって早坂がどれほど大切な存在であったかが窺われる。 早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられないことを危惧しており、そのことはお別れ会の弔辞でも語っている。 渥美自身も何とか抜け出そうとの思いがあったが、結局「寅さん」に縛り続けられることになった。 1985年頃、渥美は俳人・を演じたいと早坂に相談し、早坂と渥美は取材旅行に訪れ、脚本も完成した。 ところが寸前にが放哉をドラマ化したため(『海も暮れきる~小豆島の放哉~』1985年8月1日放映、放哉役はで、第23回奨励賞を受賞 )、急遽題材をに変更することになり、渥美と早坂は今度は山頭火の取材旅行に訪れ、脚本も完成したにもかかわらず、クランクイン寸前になって、突然渥美から制作のNHKに「山頭火」降板の申し出があった。 降板の理由は体調不良やスケジュール不合などいわれるが、周囲(特に松竹)から「寅さん」のイメージ損失を嫌ったことの軋轢かと思われる。 ちなみに渥美降板により主役がとなったこのドラマ「山頭火・なんでこんなに淋しい風ふく」は、(脚本部門ゴールデンニンフ=最優秀賞)を受賞し、フランキー堺は同最優秀主演男優賞を受賞している。 早坂は渥美に、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。 映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いたとのコンビも長い。 渥美主演映画を最も多く単独執筆したライターは鈴木である。 『八つ墓村』も当初は鈴木脚本で予定されていた。 上記著書のは1960年代前半に放送作家として渥美と知り合い、独身時代はお互いの部屋で徹夜で語り合うなど親友に近い関係であったが、次第に疎遠となっている。 同書では、小林がその後親しくなっていくのと渥美とは互いに敵愾心に近いライバル意識があったことにも触れ、クレージーのメンバーの社会常識を称える形で、渥美とは性格的齟齬があったことを示唆している。 渥美はのを高く評価しており、寛美の公演のパンフレットに渥美のコメントとして「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で観るだけで、楽屋には寄らずに帰える。 帰る途すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている」と書いていた。 寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「おい、横丁のトラ公な、まだ帰ってこんのか? 」と言うアドリブを発していた。 非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていたが、「寅さん」とはまったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らにはほとんど気づかれなかったという。 は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。 特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。 2006年9月4日にNHKので放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。 の映画『』を基にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。 この構想はすでにによって「渥美清子の青春」として、1968年にシナリオ化されている(シナリオ作家協会発行「シナリオ」1968年8月号収録)が、映像化はされていない。 黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、『』で共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。 因みにそれを報道したスポーツ紙には、フランス座時代に幕間ので黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたの格好をした時の写真が掲載された。 これは当時マスコミがその写真しか得られなかったためである。 黒柳はは渥美の死去から10年と節目の年であったためか、渥美の事を話すこともしばしばあった。 または渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。 とは少年時代からの旧知であり、本人曰く渥美は永も所属した不良グループのボスだったという。 また渥美がを目指すようになったのにはある刑事の言葉があると言う。 曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導されたことがあり、その時の刑事に「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。 その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたことがを目指すきっかけになったとのことである(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のきっかけとなったとされている)。 その他、プライベートでの交流があった芸能人として、がいる。 2人とも「男はつらいよ」シリーズの常連出演者で、芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。 笹野は「」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督へ笹野を紹介したのは渥美自身であった。 は、渥美と同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口で会った際、渥美から「旅ですか? 」と話しかけられ、とっさに「はい。 北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという。 長男の田所健太郎は、の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていたが、後に渥美清が彼の父親として来社し社内は騒然となった。 健太郎は、『』2002年8月号の記事『七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔』で、渥美が健太郎の食器・食事に対する扱いに突然激高し、激しい暴行を何度も加える等のが家族へ日常的に行われていたとも告白している。 晩年はを趣味としていて『アエラ句会』(主催)において「風天」のでいくつかの句を詠んでいる。 森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、 2010年)に詳しく紹介されている。 出演 [ ]• シリーズ(1969年 - 1995年、1997年、2019年 全50作)- 車寅次郎• (1969年)• (1969年)• (1970年)• (1970年)• (1970年)• (1971年)• (1971年)• (1971年)• (1972年)• (1972年)• (1973年)• (1973年)• (1974年)• (1974年)• (1975年)• (1975年)• (1976年)• (1976年)• (1977年)• (1977年)• (1978年)• (1978年)• (1979年)• (1979年)• (1980年)• (1980年)• (1981年)• (1981年)• (1982年)• (1982年)• (1983年)• (1983年)• (1984年)• (1984年)• (1985年)• (1985年)• (1986年)• (1987年)• (1987年)• (1988年)• (1989年)• (1989年)• (1990年)• (1991年)• (1992年)• (1993年)• (1994年)• (1995年)• (1997年)• (2019年) 映画 [ ]• (1958年)- 八田• (1960年)- 大井社長• (1960年)- 三吉• (1961年)- 胴脇• (1961年)- 三木本二等兵• (1961年)- 中年の男• (1961年)- 教祖• (1961年)- マッハのズラ公• (1961年)- ドスキンの政• (1961年)- 衛兵司令• (1961年)- 野崎• (1961年)- マッハのズラ公• (1961年)- 関東綱五郎• (1961年)- 西向の三八• (1961年)- 青田上等兵• (1962年)- お巡りさん• (1962年)- 関東綱五郎• (1962年)- 暗闇の丑松• (1962年)- 佐々木• (1962年)- 葵光男• (1962年)- 銀二• (1962年)- 杉本勘太郎• (1962年)- 小山田善六• (1963年)- 丹下一飛曹• (1963年)- 運転手• (1963年)- 市兵衛• (1963年)- 陣内陣太郎• (1963年)- 山田正助• (1963年)- 大八• (1963年)- 三遊夢歌笑• (1964年)- 山口善助• (1964年)- 万やん• (1964年)- 上野留吉• (1964年)- 鶴川角丸• (1964年)- 北一平• (1964年)- 毛利三郎• (1965年)- 悪源太なり平• (1965年)- トシ(片岡俊男)• (1966年)- 山根• (1966年)- 野口長太郎• (1966年)- 身延の朝吉• (1966年)- 吉田貞治• (1967年)- 青木吾一• (1967年)- 山川彦一• 父子草(1967年)- 平井義太郎• (1967年)- 山角のおやじ• (1968年)- 上田新作• (1968年)- ゲイボーイ・カオル• (1968年)- 悪源太なり平• (1968年)- 関元三郎• (1968年)- 田代• (1968年)- 渡辺勝次• (1968年)- 伊平• (1968年)- ホース• (1969年)- 南田松次郎• (1969年)- 桃山勉吉• (1969年)- 参竜斉清山• (1970年)- 木村• (1970年)- オケラの五郎• (1970年)- 連絡船の男• (1972年)- 西山民次• (1972年)- 松下松太郎• (1974年)- 安夫の叔父・金之助• (1974年)- ひかり座の支配人• (1974年)- 日本語版ナレーター• (1975年)- 消防団団長• (1975年)- 矢沢源太郎• (1977年)渡辺係長• (1977年)-• (1978年)- 久保• (1979年)- 西本• (1980年)- 近藤• (1986年)- 喜八• (1987年)- ナレーター• (1988年)- 春之助• (1993年)- 八百屋の親父 テレビドラマ [ ]• (1958年 - 1960年、)- 奴せんべい• (1959年 - 1961年、)• (1961年 - 1964年、)- 平吉• (1962年 - 1963年、フジテレビ)- 赤羽丑之助• (1964年、)• (TBS、多数出演)• (1965年、フジテレビ)• (1965年、NHK)- きんちゃくの辰五郎• (1966年 - 1968年、)• (1966年 - 1968年、フジテレビ)- 三遊亭歌笑• (1967年、フジテレビ)• (1968年、日本テレビ)- ナレーション• (1968年 - 1969年、フジテレビ)- 車寅次郎• (1968年 - 1969年、TBS)• (1969年、フジテレビ)• (1969年、フジテレビ)- 大関史郎• (1969年、フジテレビ)- 轟鉄太郎• (1970年、フジテレビ)- 沖熊吉• (1971年 - 1972年、フジテレビ)- 宗木五郎 モデルは• (1972年、NET)- 直吉• (1973年、)- 余七五郎• (1974年6月 - 11月、TBS)• (1977年 - 1979年、) - 杉山松次郎• (1977年、フジテレビ)- 総合司会• (1978年、TBS)- ナレーション• (1979年、TBS)- 長吉• 幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜 (1979年、NHK)-• (1980年10月 - 1981年3月、TBS)- ナレーション• 「花嫁の父」(1981年、よみうりテレビ)- 平吉• シリーズ(1985年 - 1988年、NHK)- ナレーション ラジオ [ ]• 『渥美清 ローマンス劇場』• (1963年、NHK) - 応援ゲスト CM [ ]• 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター• 「パンシロン」• 「サントリー生ビール ナマ樽」• 「」(没後に製作) 音楽作品 [ ] シングル [ ]• 彼奴ばかりがなぜもてる(1962年)• 恋すれど恋すれど物語/もててもてて困ってしまう(1963年、SA-1040)• 泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)• オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)• 男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌、アニメ『男はつらいよ〜寅次郎忘れな草〜』主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)• ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)• さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月10日)• こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(ドラマ「」)(1973年4月5日)• いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)• 寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)• 祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)• 渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りII)(1976年6月25日)• 浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)• 今日はこれでおしまい B面:着流し小唄 (1977年10月25日)• DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日) アルバム [ ]• 渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)• 渥美清が歌う哀愁の昭和叙情曲集(1970年4月)• 噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)• 男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)• 男はつらいよ名場面集(第一集)• 男はつらいよ名場面集(第二集)• 男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)• 渥美清ベストヒット28(1976年) 編著書 [ ]• 『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』(展望社、2003年)• 編集部編『渥美清わがフーテン人生』(、1996年)• 森英介編『赤とんぼ 渥美清句集』(本阿弥書店、2009年) 参考文献 [ ]• さらば友よ(、ザ・マサダ、1996年)• 生きてんの精いっぱい 人間・渥美清(篠原靖治、主婦と生活社、1997年)• 渥美清晩節、その愛と死:最後の付き人が見守った「寅さん」一四年間の真実(篠原靖治、祥伝社、2003年)• 最後の付き人が見た 渥美清 最後の日々:「寅さん」一四年間の真実(篠原靖治、祥伝社黄金文庫、2019年)• おかしな男 渥美清(、新潮社、2000年)• おかしな男 渥美清(小林信彦、、2003年)• おかしな男 渥美清(小林信彦、、2016年)• 渥美清の伝言(NHK「渥美清の伝言」制作班編、KTC中央出版、1999年)• 拝啓 渥美清様(社会部編、、2000年)• 拝啓 渥美清様(読売新聞社会部編、、2006年)• 知られざる渥美清(、文庫、2002年)• 渥美清 浅草・話芸・寅さん(、、2007年)• 渥美清の肘突き:人生ほど素敵なショーはない(、、2008年)• 私が愛した渥美清(、光文社、2017年)• 文人たちの俳句(坂口昌弘、本阿弥書店、2014年) 親族 [ ] 長男。 株式会社に所属していたラジオ。 主な担当番組に、がある。 現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。 元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。 渥美清を演じた人物 [ ] テレビドラマ [ ]• - 『』(1997年9月24日、)• - 『』(2016年、)• - 没後20年ドキュメンタリードラマ 『おかしな男〜寅さん夜明け前 渥美清の青春〜』(2016年8月4日、)(主演)• - 『』(2017年 - 、) ものまね() [ ]• - 渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認のものまね芸人。 寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。 - 1970年代に人気を博した。 - ( [ ]) 広島県で活躍している「広島の寅さん」。 TSSのローカルドラマ「」にドラ猫のドラ役で出演していた。 - 山田洋次監督公認。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 板橋区の記録にこのような名前の学校はない。 志村尋常高等小学校(現在の)の誤りもしくは通称と考えられる。 昭和31年5月末日現在の「関東香具師諸団体組織系統要覧」によると枡屋一家は関東の香具師の団体で、主たる勢力範囲は上野、神田である。 それ以前に健太郎がのディレクターなどの立場で公式の場に出る際は、渥美の長男であることを社外では一切伏せていた。 1995年から逝去後の1997年まで、「 ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。 またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。 幼少時代のと共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。 ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく死去の直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。 CMのキャッチコピーは「 歴史は、あっちこっちでつくられる。 の神様と称されるの手によるものである。 出典 [ ]• 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月19日閲覧。 『任侠百年史』笠倉出版社、1980年、p. 657• 『渥美清: 浅草・話芸・寅さん』晶文社、2007年、p. 『讀賣年鑑』第1973巻、670ページ• 他「鎮魂、映画の昭和 岡田茂他」『』、編集プロダクション映芸、2011年8月号、 132頁。 『素晴らしき哉 映画人生! 』、2012年、167-168、172-173頁。。 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』、1998年、240頁。。 『日本映画人名事典 男優篇〈上巻〉』キネマ旬報社、1996年、51頁。。 人とシナリオ出版委員会『鈴木尚之 人とシナリオ』日本シナリオ作家協会、1998年、30-31頁。。 「掛札昌裕」『にっぽん脚本家クロニクル』、1996年、735頁。。 風天(フーテン): 渥美清のうた p176• - テレビドラマデータベース• 『おかしな男 渥美清』(新潮文庫、2000年、pp. 326-328)• 「男はつらいよ DVD BOX」(松竹、2008年10月発売)、監督の特典インタビューにて(2008年収録)• (2010年1月1日) - 布袋寅泰公式ブログ• 2016年8月22日閲覧。 ORICON STYLE 2016年2月26日. 2016年2月26日閲覧。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - (英語)• 第9回:• 第13回:• 第15回:• 第27回:• 第33回:•

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