天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも。 百人一首の意味と文法解説(7)天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも┃阿部仲麿

百人一首/阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも

そして、「明州 めいしゅう 」というところの海辺で、現地の人が送別会をしてくれた。 夜になって、月がひじょうに明るくさしのぼったのを見て、よんだ和歌だと語り伝えられていることです。 振り向いて広々とした大空を見わたすと、そこには夜空にかかる月、あれは、春日にある三笠の山にのぼった月なのだなあ。 四段活用・上二段活用・下二段活用の動詞がたくさんある そのほかの動詞は「」でご確認ください。 接続助詞「ば」については「」にくわしくまとめました。 助動詞のくわしい解説は「」をご覧ください。 唐土 もろこし にて月を見て、よみける 訳)中国で月を見て、よんだ歌。 この歌は、昔、仲麿を、唐土 もろこし に物 もの 習 なら はしに遣 つか はしたりけるに、数多 あまた の年を経 へ て、え帰りまうで来 こ ざりけるを、この国より又使 つかひ まかり至りけるにたぐひて、まうで来 き なむとて出 い で立ちけるに、明州 めいしゅう と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別 むまのはなむけ しけり。 夜に成りて、月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる 訳)この歌は次のような次第でよまれた和歌である。 そして、「明州」というところの海辺で、あの国 中国のこと の人が送別会をしてくれた。 夜になって、月がひじょうに明るくさしのぼったのを見て、よんだ和歌だと語り伝えられていることですよ。 たかまがはら。 平城京の東方にある丘陵地帯。 ) みかさやま【三笠山】 奈良市、春日大社のうしろの山。 笠を伏せたような円錐形の山であるゆえにその名がある。 平城京の真東(まひがし)にあたるために印象深く、中国に渡った阿部仲麿が「あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(古今集・羇旅、百人一首)とよんだのも、いわば当然であった。 生まれた年を大宝 たいほう 元年 701 とする説もあります。 養老 ようろう 元年 717 、遣唐留学生として唐 とう (いまの中国)にわたります。 朝衡 ちょうこう という中国名を名のって、 玄宗皇帝 げんそうこうてい に仕え、 李白 りはく や 王維 おうい などの詩人たちと交流しました。 天平勝宝 てんぴょうしょうほう 5年 753 、遣唐大使 けんとうたいし 藤原清河 ふじわらのきよかわ とともに帰国しようとしたが、暴風にあって漂流し、唐に引き返しました。 けっきょく、日本に帰ることはできず、唐で没しました。 遣唐使 けんとうし 遣唐使は中国大陸の文化や政治を学ぶために派遣されました。 派遣はぜんぶあわせて十数回におよびました。 一度に派遣する人数は、多いときで500人ほど。 これを4隻の船にわけます。 4隻の船にはそれぞれ、大使・副使・判官 じょう ・主典 さかん が分乗したので、「よつのふね」とも呼ばれます。 廃止されたのは寛平 かんぴょう 6年 894。 唐で戦乱がつづき、情勢が不安定になったことが原因です。 の提案によって廃止が決まりました。 日本史語呂合わせ:遣唐使廃止(白紙にもどそう遣唐使) 唐(618~907年) 唐は618年、李淵 りえん によって建国されました。 首都 長安 ちょうあん (現在の西安)は、東西対称の碁盤の目のような区画で街が作られており、そのほかの東アジアの国々の首都のモデルになりました。 平城京や平安京も長安の作りにならっています。 長安は、まわりのさまざまな国々から留学生や商人がおとずれる国際都市でした。 彼らは唐の国の仕組みや文化などを自分の国に持ち帰り伝えました。 阿倍仲麻呂も玄宗皇帝の時代に中国の政治制度を学んだ一人でしたが、帰国することはできませんでした。 唐の二つの安定期 唐の国内政治が安定して、特に強い国力を持っていた安定期が二つあります。 貞観の治 じょうがんのち と開元の治 かいげんのち です。 唐の中央官制「三省六部」 李世民と、その臣下の者たちが交わした政治論をまとめた書物が、『貞観政要』 じょうがんせいよう です。 これは日本にも伝わり、特に愛読したのが 徳川家康 とくがわいえやす です。 家康は学問好きで知られ、『貞観政要』を愛読書とするだけでなく、自ら出版もしました。 くわしくは「印刷博物館」のHPをご覧ください。 () 『貞観政要』を読んでみたい方は『新釈漢文大系』をご覧ください。 玄宗皇帝の開元の治 713~741年 唐の第6代皇帝、玄宗の時代はひじょうに安定した政治だったので、「開元の治」 かいげんのち と呼ばれています。 しかし、治世の後半は 楊貴妃 ようきひ を寵愛 ちょうあい したことで政治が乱れてしまいました。 玄宗の時代に対処しなければならない一番の問題は異民族でした。 そこで導入されたのが、募兵制 ぼへいせい と呼ばれる傭兵 ようへい 制度です。 傭兵とはお金で兵士を雇うことです。 そして、それらの傭兵をたばねる 節度使 せつどし と呼ばれる指揮官を設置しました。 節度使は首都から離れた辺境地域に散らばって、警備の任務にあたりました。 最初に設置されたのは10か所です。 玄宗の治世の最初の40年ほどは、これらの政策がうまくいき、国内の情勢は安定していました。 安史 あんし の乱(755~763) 楊貴妃はもともと玄宗の皇子の妃でしたが、玄宗が楊貴妃を見初めて、745年頃、自分の貴妃としました。 玄宗は楊貴妃に夢中になって政治をおろそかにするようになります。 また、楊貴妃のいとこにあたる楊国忠 ようこくちゅう を、皇帝の補佐役である宰相 さいしょう に任命して優遇しました。 そのような玄宗の政治に不満を持ったのが節度使の 安禄山 あんろくざん でした。 安禄山は節度使を3つも兼任するほどの実力者でしたが、楊国忠との権力争いにやぶれ、 史思明 ししめい とともに兵を挙げます。 長安は反乱軍に占領され、玄宗と楊貴妃らは逃げましたが、逃げる途中で、楊貴妃は戦乱の原因になったという理由で楊国忠とともに処刑されました。 唐は反乱の鎮圧に苦労し、ウイグルの協力を得てようやくおさめましたが、国の力はおとろえてしまいました。 反乱の指導者である安禄山と史思明の、二人の頭文字を取って「安史の乱」と言います。

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天 野 原

天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも

【2001年1月10日配信】[No. 本年も弊社をよろしくお引 き立てのほど、お願い申し上げます。 取り札には下の句しか書かれていないので、 運動神経の良い子供さんより、歌に慣れ親しんでいるおばあさん の方が取る数が多いなどということもしばしば。 老若男女みんな に好まれるのも頷けますね。 中でも安倍仲麿のこの歌は、歴史の教科書にもよく引用され、 子供でもよく知っている有名な歌です。 あの月は 奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ。 「原」は、「海原」と同じく、大きく広がってい る様子を表す時に使われます。 【ふりさけ見れば】 遠くを眺めれば、という意味。 「ふりさけ見る」の已然形に、確 定条件を表す接続助詞「ば」がついたものです。 【春日なる】 現在の奈良市春日野町あたりの土地で、奈良公園から春日大社ま での土地。 遣唐使の出発に際しては、春日神社で旅の無事を祈った といわれます。 【三笠の山】 春日大社後方、春日山原始林の手前にある山。 若草山と高円(た かまど)山の間にあります。 御笠山とも御蓋山とも書きます。 【出(い)でし月かも】 「かも」は奈良時代に使われた詠嘆の終助詞です。 かつて見た三 笠山の上に昇る月を表しながら、唐の地で今見ている月を重ねてい ます。 698〜770) 19歳の頃、遣唐使として中国の唐へ渡った留学生の一人。 時の玄 宗皇帝に気に入られ、中国名「朝衡(ちょうこう)」として50年以 上仕えた。 一度帰国を許されたが、途中で船が難破して引き返し、 結局帰れぬまま唐の地で没す。 盛唐の大詩人である李白や王維とも 親交があった。 しかし、あまりに気に入られたため、日本 に帰ることを許してもらえませんでした。 唐にいて望郷の思いがつのる仲麿でしたが、30年を経てようやく 帰国を許され、明州(現在の寧波(ニンポー)市)で送別の宴が催 された時に詠まれたのが、この歌でした。 あの月は、遠い昔、遣唐使に 出かける時に祈りを捧げた春日大社のある三笠山に昇っているのと 同じ月なのだ。 ようやく帰れるのだなあ。 仲麿の思いもかくやですが、残念ながら 船は難破し、結局戻った中国で54年暮らして、72歳でその生涯を閉 じます。 仲麿が逝去した時は、あの中国の大詩人・李白も悲しみ、 「晁卿衡(ちょうけいこう。 仲麿のこと)を哭す」という詩を作っ ています。 奈良駅から表参道を上り、興福寺や東大寺大仏殿など、数 多くの観光スポットをたどりながら歩くと到着するのが、春日大社 です。 三笠山は春日大社の後方にある標高283mの山。 万葉の舞台と なった古(いにしえ)の名勝です。 お正月の初詣に、一度は訪れてみたい場所ではないでしょうか。

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ちょっと差がつく百人一首講座

天 の 原 ふり さけ 見れ ば 春日 なる 三笠 の 山 に 出 で し 月 かも

古代史再発見 独創古代1-- 未来への視点 古 田 武 彦 一 古歌謡に見る九州王朝 西脇幸雄(会報99号) 「天 の 原」はあった 古歌謡に見る九州王朝 東京都世田谷区 西脇幸雄 これまで古田武彦氏は、古代史の常識を覆す数々の発見をされてきました。 古事記、日本書紀に隠された九州王朝の発見から、新説多元的古代史観を生み、縄文時代の倭人が太平洋を渡ったという気宇壮大な学説は、多くの考古学者による縄文都市の発見、発掘(発掘した当の人々は未だに「クニ」、「集落」などと誤魔化している始末ですが)とあいまって縄文人が野蛮な狩猟・採集の民であると教えられてきた私たちの目を覚ますに十分すぎるものです。 それによって、日本史や国語学、文学などあらゆる分野にわたって一から再検討を加える必要がでてきました。 本稿はこの視点から古歌謡に見える九州王朝について、その痕跡をさぐるべく新たな解釈を試みたものです。 すでに古田氏は万葉集の解釈においても新しい発見を述べられていますが、筆者も氏の発見に触発されて自分なりに気づいたところを以下に述べたいとおもいます。 古くからこれは、海原が海を指すと同じように大空を指す異名と解釈されてきました。 武田祐吉著「通解名歌辞典」によれば、 大空を遠く望むと、今しも月がのぼってきた。 あの月は、その昔わたくしが故郷にいた時見た、春日にある三笠の山に出た月と同じであろうか。 ああなつかしい月だ。 と解釈されています。 また、「新日本古典文学大系 古今和歌集」にも、 大空をふり仰いで眺めると、空にかかる月、そうだあの春日の地にある三笠山に出た月なのだなあ。 と説かれています。 また古今集の左注の詞書(注2)にあるように、この歌の作歌地は唐の明州で、仲麻呂の送別の際の歌であるとされています。 これに対し、古田武彦氏は「『君が代』は九州王朝の賛歌」において、春日と三笠山のワンセットが、九州王朝の地、筑紫にもあることを見出だされ壱岐に「天の原遺跡」があることから、この歌が歌われたのは、断定はできないとしながらも、この壱岐の近くであろうと次のように推定されています。 大陸へ向かう使者が博多湾を出て玄界灘を北上する。 (中略)さて、壱岐の北端部、「天の原」を通りすぎると、もう「日本」は見えない。 その筑紫の地には、春日があり、そこに三笠山があるのだ。 「日本最後の夜」だった。 しかし、今、この「天の原遺跡」を西行すれば、その「日本」は見えない、なつかしい筑紫の地を見ることはできないのだ。 使命を帯びて異国へ行く。 もう再び、「日本」に帰ってこれるかどうか。 これが見おさめかもしれぬ。 これは「日本」に別れる歌だったのである。 との解釈を示されました。 壱岐を過ぎる船上で詠んだものという考えです。 しかしながら、まだ納得できないところがあります。 当然、筆者独自の考えもあってしかるべきでしょう。 卑近な例を挙げることを許していただければ、現代にも似たようなモチーフの歌があります。 そう、民謡「炭鉱節」です。 月が出た出た 月が出た 三井炭鉱の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ サノヨイヨイ 和歌と民謡は違うとおっしゃる向きもあるでしょう。 また、これは曲あっての詞であり、陽気な曲調とはうらはらに、夜遅くまで、つらい坑内作業を行う炭鉱労働歌です。 旅の歌と労働歌との違いもあり、現代の民謡と、恐らくは作歌時期が奈良朝を下らない(後述)この和歌とを同日に論じることはできませんが、仲麻呂の歌が従来の解釈のままで名歌とよびうるかは若干疑問がわかないでしょうか。 日本の下級官僚から、後には唐朝の高級官僚にまで上り詰めた仲麻呂の盛名をもってすれば、名歌とするに吝かでないところですが、仲麻呂が唐の明州で送別の宴に詠んだとするには、あまりにも歌意がそぐわないのです。 一の一、作歌地は明州ではない なぜなら仲麻呂が日本を偲んで三笠山の月を詠んだとすると、三十数年間唐朝に仕えて、おそらく彼の地で数限りなく月の出を見てきたことでしょう。 ことさら送別に臨んで詠む題材とは思えません。 ただし、次のように考えることも可能です。 それは、 仲麻呂が唐の地で送別の宴にすでに倭国で(近畿天皇家にも)知られていた有名な歌をその場で引用したというものです。 なぜそう言えるかは筆者の解釈であきらかになります(後述)。 古今和歌集には、仲麻呂が、唐の明州で詠んだ旨の注記(注2)がありますが、「完訳日本の古典第九巻 古今和歌集」によれば、 本集の左注の記述は必ずしも信用できないので、この歌の所伝も一応は疑えるのである。 しかし、歌の用語は古い時代のものが多く、線の太い無技巧なうたいぶりから見ても古い歌であるとはいえるだろう。 『続日本後記』承和三年(八三六)五月の条によれば、当時すでにこの歌は仲麻呂の作と信じられていたようである。 船上での作歌とした場合、船頭(パイロット)でもない仲麻呂は、舳先に立ついわれがありません。 船が港を出たときからズッと艫から三笠山を見ていることができるのです。 いったん「振り仰がないと」三笠山が見えないわけではありません。 まさか三笠山の位置がわからないわけではないでしょう。 前述のとおり、古田氏が、この歌は天の原を過ぎるあたりで船中で詠まれたとする解釈に筆者が概ね賛成したのはこの意味です。 しかし、この解釈でも、まだ十分ではありません。 もし(おそらく)九州北岸から船出した(難波津からでは三笠山が見えず論外です)船中の作歌とすると、月の出を詠んでいるので夜の船出となります。 ただでさえ当時として危険な航海をしなければならないのに、夜船出する必然はありません。 たとえ航海に十日ほどかかるとしても、風待ち、潮待ちの必要があった時代です。 中国への遣使と考えた場合でも、時間はたっぷりあるのです。 ことさら夜に船出する理由がありません。 古田氏は、昨夜の月を懐かしんで詠んだとされていますが、歌の心を忖度するならば、もっとストレートに理解したいところです。 すべての重複を取り除けば、「三笠山に月が出た」ということになってなつかしさも感動も表現されない単なるつまらない歌になってしまうといっては言い過ぎでしょうか。 そうではないはずです。 ここで改めて和歌の原点に立ち返って理解しましょう。 古来、万葉人は意余って言葉足らずとでも言うように、長歌をつくり続けてきました。 それが段々五七+五七+七の三十一文字に集約されてきたのです。 この短い韻文の中では、一文字といえどもゆるがせにできないはずです。 「推敲」の故事を思い出しながら、本歌の一語一句にすべて意味があるはずだと考えたいのです。 ふる【振る・震る】《他五》本来は物をゆり動かして活力を呼びおこす呪術的行為。 その信仰の衰えとともに、単に物理的な振動を与える意となる。 ゆり動かして活力を呼びさます。 神霊の活力を呼びさます。 また、それを降下、鎮座させる。 (岩波 広辞苑第5版) この語は、今日まで神社の神主が御幣を振って祝詞を唱える行為にもつながっています。 すなわち、「神に願いをかける」意味にとらえることができるでしょう。 この語は、1・四段活用と2・下二段活用のふたつの活用形があります。 はるかに・・・する。 遠く・・・する。 ロ、その動作を十分な点にまで及び至らせる意を表す。 十分に・・・する。 すなわち、十分に神霊の活力を呼びさますこととなります。 ところで従来の解釈では、 ふりさく【振り放く】(他カ下二)遠方をふり仰ぐ。 はるかに仰ぐ。 (角川新版古語辞典) との訳語を当てています。 重大な誤訳であることは明らかです。 また、それを降下、鎮座させる。 」すなわち「遷座」の意味もありますから、これでは多少意味がずるかもしれません。 もう少し考察してみましょう。 「辞海」につぎの言葉が載っています。 たまふる【魂振】(動四)《古》霊魂を祈り鎮める。 鎮魂の祈りをする。 (「辞海」金田一京助編) ここで、「《古》」とあるのは、平安時代の語彙であることを示します。 これは動詞です。 みたまふり(名)御霊振|招魂〔みハ敬語〕たましずめのまつり(鎮魂祭)に同じ。 四時祭式、下「鎮魂祭」(出でまさせ奉るをフルと云う、神輿振と云う語あり) 鎮魂祭を、一にオホムタマフリとも云う。 たましずめは、鎮むる方に付きて云ひ、タマフリは、振動かして、勢いあらしむるに云う。 (遊離せぬように、力をつくるなり)(「新編大言海」大槻文彦編) 古神道においては、大和に侵入した神武に仕えた物部氏も、「鎮魂法」を行っていたとして(注3)、 物部氏の鎮魂は太刀、即ち神剣を「振う」ことと深い係わりがあり、神霊のこもる神剣を振うことによって、あらゆる邪気・邪霊を祓い清める優れた効力があったものと思われる。 その霊的効験の著しいことから、世に有名となり、神剣のちに十種神宝を振う神術・動作に注目して「タマフリ」と呼ばれるようになったのではなかろうか。 と考えられています。 そしてこれは古い用語なのです。 二の二、夜は祭儀の時間 三世紀の壱岐島は一大率が駐屯する軍事拠点でした(注4)。 祭政一致の九州王朝にとって同じく、壱岐の天の原に祈りの場である重要な宗教上の拠点があっても少しもおかしくはないのです。 古来日本の民俗にハレとケという言葉があります。 祭りの日をハレの日といい、そうでない日をケの日といいます。 つまり神すなわち祖先神を祭る場がハレの場であり、そうでない日常の場がケの場なのです。 この歌が月の出を詠んでいるところからみて、その詠まれた時刻は夜と考えるべきです。 現在でも、東京の府中くらやみ祭、秩父夜祭など祭りを夜行う風習は各地に多く遺存しています。 これは神を祭る行事が、古くから夜行われていた名残と考えられます。 ただし、これは今で言う行事などでなく、文字通り日常の生活と結びついた重要な儀式行為なのです。 同時代の中国でも事情はほぼ同じであったことはよく知られています。 九州王朝でも「イ妥王は天をもって兄と為し、日をもって弟と為す。 天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め云う『我が弟に委ねん』と」(注5)としているように神を祭るのは夜の仕事で、実際の政治は昼の仕事というように兄弟でハレの場とケの場を分けて統治していたことが、中国史書にも記述されています(この「兄弟統治」という重要なテーマを提出したのは古田氏です)。 そしてハレの場では祈りに心身を捧げることが要求されます。 あちこちキョロキョロすることはできないのです。 祈りの儀式を終えて初めて「春日なる三笠山」を見ることができたのです。 結局、この歌の大意は次のようになります。 天の原神宮で航海の無事を心ゆくまで祈っておりました。 祈りを終えて、その場を退出してみますと、春日の三笠山から煌煌とした月が差し昇ってきたではありませんか。 ああ、これで明日は晴れるなあ(航海の無事が約束されたのだなあ)。 本歌をこのように理解することで、初めてこの歌の描写する深刻かつリアルな状況が伝わってきます。 まさしくこの歌は、古今集にありながら、如実に万葉ぶりを髣髴とさせる名歌といえます。 鴨山の磐根しまける 吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(万葉集巻二 柿本人麻呂) 鴨山の大岩の根元にもたれて、衰弱して この私が横たわっているのも知らないで妻はかならずや、今もずっと私の帰りを待ってくれているに違いない。 (今すぐにも帰りたいのだが、なんとも無念でならない。 現代語で、「それって好きカモ」などと若者がいいますが、後者はこの類です。 ところが、この歌はどこで詠んだにせよ、目の前に出た月をみて詠んでいるのです。 過去などでないことは明らかです。 現代語でいえば、「うわっ、 出た、お化け。 」というときの助動詞「た」の用法と同じです。 したがって、この歌は文字どおり「願いが通じて、今、月がでたなあ。 」という意味です。 故郷の月と「 同じ」などという言葉はどこにもありません。 勝手に原文を改定することはできないのです。 また、こう考えないとこの歌が死んでしまいます。 五、類歌考 この安倍仲麻呂作とされる名歌は古今集所載(むしろ百人一首に採択されて有名)、ですが、成立がそれより古いとされる万葉集には、「天の原」を歌った歌が十五首載せられています。 そのうちの六首は「天の原」は枕詞などとする従来の解釈では明らかに意味不明となる歌です。 よく知られている歌の中にも今回述べた筆者の解釈に強い傍証となる歌がありますが、今はこのあたりで筆を擱きます。 六、結論 本論稿により古来名歌とされてきた歌の本当の姿とそのもつ感動がよみがえってきたのではないかと自負しています。 これによって古田氏の唱える九州王朝の重要な地である壱岐の天の原の存在が強く浮かび上がってきたと言えるでしょう。 1 作歌地は、唐の明州ではなく壱岐の天の原です。 船出に先立って天の原に於いて航海の無事を祈り、三笠山に昇る月を見てこの航海の無事が約束されたことに強い感動を覚えこの歌が生まれたものです。 歌語の古さから、おそらくこの歌の本当の作者は安倍仲麻呂ではありません。 天の原が重要な信仰の地であった筑紫人でなくては詠うことができない内容だからです。 この歌は、おそらく中国(南朝劉宋か?)へ使いする九州王朝の高官が詠んだものでしょう。 仲麻呂がこの歌の作者とされた理由は、送別の宴で、水行十日とされる唐から倭国への帰国の大変さを思って、この歌の本当の作者と同じ気持ちになり、現地でこの歌を詠ったからではないでしょうか。 実際、仲麻呂は帰国時に暴風に会いベトナムに漂着し、ついに唐の地で亡くなったのです。 仲麻呂と一緒に船出した人の一部は帰国しているようですから、その人たちから伝えられた事情によってこの歌の作者が安倍仲麻呂とされ、古今集の詞書(注2)が生まれたのではないでしょうか。 (二〇一〇・四・一五) 注および参考文献 注1 安倍仲麻呂(あべのなかまろ・六九八? 七七〇)奈良時代の文人。 七一六年遣唐留学生に選ばれ翌年入唐。 玄宗皇帝に重用され秘書監にまで取り立てられた。 七五二年許されて吉備真備らと帰国を試みるも乗った船が安南に漂着、長安に戻り客死した。 李白、王維らとも親交があった。 唐名、朝仲満、朝衡、晁衡。 余談ですが、筆者の推定では、唐名は自身で付けたものでしょう。 姓の朝は、「朝臣」または日出る国の連想からでしょう。 仲満はナカマロをこのように綴ったものです。 衡(こう)は「仲麻呂」の仲から中央でバランスする秤になぞらえたもので、これは字(成人後の通用名)です。 注2 仲麻呂の歌は、古今和歌集巻第九 羇旅歌の部の巻頭に載っています。 唐土にて月を見てよみける 安倍仲麻呂 天の原ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも この歌は、「昔なかまろを唐土にものならはしにつかわしたりけるに、あまたの年をへて、え帰りまうでこざりけるを、この国より又つかいまかりいたりけるにたぐいて、まうできなむとていでたちけるに、明州といふところの海辺にて、かの国の人むまのはなむけしけり。 よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるを見て、よめる」となむかたりつたふる。 (大意 この歌は、「昔仲麻呂を唐に留学に派遣したが何年たっても、なかなか帰ってこないので、わが国からまた使節が行ったので、連れ立って帰ろうとして帰国の準備をした時に、明州というところの海辺で唐のひとが送別の宴を開いてくれました。 夜になって月が興趣をそそるように昇ってきたのを見て詠みました」と語り伝えています。 注3「古神道の秘儀」(渡辺勝義著・海鳥社・二〇〇〇)四五頁 注4「『邪馬台国』はなかった」(古田武彦著・朝日文庫・一九九三)二一四頁注5 ・「失われた九州王朝」(古田武彦著・角川文庫・一九八五)二九〇頁 ・「『君が代』は九州王朝の賛歌」(古田武彦著・新泉社・二〇〇〇) ・「通解名歌辞典」(武田祐吉著・森北出版・一九六九) ・「古今和歌集(新日本古典文学体系5)」(小島、新井校注・岩波・一九八九) ・「古今和歌集(完訳日本の古典弟9巻)」(小沢、松田校注訳・小学館・一九八三) ・「広辞苑第5版」(新村出編・岩波書店・一九九八) ・「角川新版古語辞典」(久松潜一、佐藤謙三編・角川書店・一九八三) ・「辞海」(金田一京助編・三省堂・一九六九) ・「新編大言海」(大槻文彦編・富山房・一九八二) これは会報の公開です。 史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。 新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは。

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